“#グッチの歴史 Vol.2”
グッチオグッチが自身のブランド「グッチ(GUCCI)」を誕生させてからとんとん拍子で繁栄の一途を辿ってきました。 現在のグッチもファッション業界を牽引し、革新的で、進歩的で、ファッションに対する現代的なアプローチを常に行っており、世界で最も魅力的なファッションブランドの一つとしての地位を確立しています。
グッチは、イタリアのクラフツマンシップを体現し、最高の品質と徹底したディテールへのこだわりを追及し国内外のセレブリティをはじめ、男女問わず憧れのブランドです。しかし、グッチオが亡くなってからは一族間の醜い争いが続きます。今回はグッチの歴史の中でも栄枯盛衰が色濃く残る時代を紹介します。
兄弟のライバル
グッチは、一族経営の会社でした。創業者グッチオグッチには、息子が6人いましたが、家業を継いだのは2人でした。三男アルドと五男ルドルフォです。生前のグッチオは、二人の息子をライバルとして競争させ、グッチの基礎を確立します。
三男アルドグッチの海外展開とブランディング
三男アルドは、ブランドの発展にもっとも貢献した人物と言っても過言ではないでしょう。父親のグッチオの反対を押し切り、グッチというブランドの拡大を推し進めて、海外展開をどんどん行い、成功に収めます。アメリカで、グッチが売れていなければ、今日のグッチはないと思います。 当時は「ニューヨークはグッチの街」と言われたほどです。
グッチのロゴの由来と名作の原点
グッチの二つのGをかたどった”ダブルG”は、グッチオグッチのイニシャルですが、このマークのアイデアを出し、ブランドとしての付加価値を高め、それを維持したのもアルドです。ビットモカシンや香水などのラインナップもアルドのアイデアです。
一方の五男ルドルフォは、若い頃、家業であるグッチを継ぐことはせず、映画俳優を目指します。 イタリア映画の名作「linea」に出演したりと、いっとき業界からも一目置かれますが、結局挫折してしまい、無一文となってしまいます。
父グッチオは、そんな無一文のルドルフォに救いの手を差しのべました。 こうしてルドルフォは、家業を手伝うようになりました。映画界に顔が売れているルドルフォは、ソフィアローレンやオードリーヘップバーンにグッチの顧客になってもらい、グッチの名声を高めることに成功します。
しかし、仕事上の今まで積み重ねてきた実績なら、ルドルフォは、アルドには到底かないません。本来なら、グッチ株の大部分をアルドが引き継ぐべきでした。しかし、グッチオはルドルフォを溺愛していました。
最終的には、グッチの株は、半分ずつ平等にアルドとルドルフォに渡ります。 その後、実質的な経営の中心は三男アルドが握り、徹底したブランドイメージの構築で、ブランド「グッチ」の黄金期を迎えますがこれがグッチ家の不幸の始まりでした。
ブランド黄金期の栄華
グッチの使用するピグスキンをはじめとした、海外から輸入された一見グッチの製品には風変りな素材は、様々な製造方法にかけられ、グッチのデザインに落とし込められました。1947年に竹を加熱と成形のプロセスによってハンドバッグのハンドルにしたバンブーシリーズもそのひとつです。
グッチの名作は60年代~80年代初頭にかけて、2代目の後継者アルド(グッチオ・グッチの三男)によって製造されました。1960年にショルダーストラップとスネイルビット装飾で作られた財布がデザインされ販売され、1966年にオリジナルのグッチローファーが独特の巻き毛飾りが装飾された”ビットモカシン”、グレース・ケリーのためにデザインをした花柄の”フローラ・スカーフ”が登場し、富裕層・セレブを中心に人気を集めます。
1970年にはスエードにGGロゴを焼き印した斬新なモデル、クロコダイルなどゴージャスなモデルが続々登場する中、「ロールスロイス」のラゲッジセットも発表されました。その後、時計、ジュエリー、ネクタイ、そしてアイウェアが会社の製品ラインに追加されました。
1972年:グッチパフューム設設立
1972年、グッチパフュームが設立され、ここから個性的で洗練されたデザインが始まります。このグッチパルファムはのちに”アクセコ(アクセサリーコレクション)”シリーズに受け継がれます。日本ではグッチアクセサリーコレクション(通称アクセコ)を銀座並木通りのサンモトヤマが1960年代から取り扱い、約20年後の80年代に大ヒットしました。
1970年代後半~1980年代初頭までに作られていた通称”アクセコ”と呼ばれる作品は現在、人気でコレクターがこぞって収集するオールドグッチの半分を占めています。そのグッチの革新的デザインで作られたアルドの作品は2000年代初頭に世界で最も頻繁にコピーされる製品の1つになってしまいました。
大流行のオールドグッチとは??
1980年代までのグッチの一族が、こだわりをもって経営していた頃のグッチの名作や名品を敬意を表した総称として呼ばれています。イタリアの人が1点1点作り上げていました。この頃のグッチの作品は、美術品としても大変優れており、2000年の少し前頃から海外のコレクターが集め始めたのがきっかけで流行しました。
また、最近のグッチよりも、80年代初頭までの活力があった頃のグッチの正当な血筋を引いた、グッチオ、アルドの手がけたオリジナルグッチがオールドグッチという事で人気に拍車がかかり、今ではオールドグッチの希少性やデザイン性ともに世界中のコレクターから認められています。
エルメスやシャネル、ヴィトンなど、過去の作品が比較的人気なハイブランドと比べても、グッチのユニークでウィットに富んだ個性的なデザインの豊富さはひと際群を抜き、その数は2万点をゆうに超えていると言われています。
黄金期の終わりと父と子の死闘
二人の兄弟は、反発はするものの絶妙ななバランスで関係を維持し、グッチの業績を支えてきました。しかし、五男のルドルフォが亡くなると、一人息子のマウリツィオがグッチ株の50%を引き継ぎます。彼は、おとなしい人間でした。
彼だけなら、グッチ一族の、グッチというブランドの平和は、保たれていたかもしれません。彼は、まるでエリザベステーラーだと思うような美女のパトリツィアに一目ぼれし、結婚しました。パトリツィアの性格は外交的で、グッチ社長夫人への野心を抱いていました。
グッチは1970年代を通してさらなる飛躍を果たしました。しかし、1984年からはグッチを災害の危機にさらします。それが一族経営による内部の家族紛争によるものでした。三人の息子がいたアルドは、40%の株を自分の手元に残し、10%の株をジョルジグッチ、パオログッチ、ロベルトグッチに3.3%ずつの株を分け与え役員会に参加させようとしました。
三人の息子の中でもパオロは父であり社長であるアルドと性格がよく似ていました。 パオロは、父であり、グッチの社長のアルドの意思に反した独断専行の行いが目立つようになります。
パオロはアルドに内緒で、中流階級まで顧客層を広げた「パオログッチ」というグッチの名のついたセカンドラインの製品を売り出そうと計画します。パオログッチの製品は量産され、あと一歩で販売というところまで進みますが、アルドにその計画が発覚し、阻止されます。
グッチのブランドイメージを傷つけかねないこの計画は、アルドの逆鱗に触れ、アルドは親子の縁を断ちパオロをグッチから永久追放します。 パオロは、父への復讐を誓います。
グッチ社長夫人を夢見るパトリツィアは、アルドとパオロの親子喧嘩を社長夫人になる好機だと捉えます。夫のマウリツィオの50%とパオロの3.3%の株を合計すると念願の過半数を制することができるのです。パトリツィアは夫のマウリツィオをそそのかし、パオロと共謀して、アルドをグッチから追い出すためのクーデターを起こします。
1984年10月、アルドは、グッチの社長を解任されます。マウリツィオは、念願かなって株主総会で社長に就任しました。
グッチ一族の争いの終点
パトリツィアの計略にはまり地位を失ったアルドは、このまま黙っていられませんでした。1985年アルドは、「マウリツィオは、秘書に父親のサインを偽造させて、グッチの株を相続した」と告発します。 元秘書が、証人として出廷したことで、マウリツィオは、窮地に立ちます。管財人が選出され、裁判が終るまでマウリツィオは、社長職から追放されます。
しかしアルド側も、返り血を浴びます。 1986年9月、アルドは740万ドルの脱税容疑で、法廷に立たされます。告発したのは、実の息子パオロでした。アルドに判決が下されます。罰金3万ドルと1年の禁固刑で81歳のファッション界のドンは、投獄されます。
スキャンダルによるイメージダウンと管財人の素人経営で、グッチの業績は、不振を極めます。1988年、マウリツィオが、会長に復帰を果たします。マウリツィオに経営を任せるくらいなら、他人に株を売ったほうがいい。そう考えたジョルジョ、ロベルトそしてパオロまでが、株を売却します。
売却先は、アラブ資本の投資銀行「インベストコープ」でした。1990年、アルドが失意のうちに亡くなります。「パオロをけっして一族の墓に入れてはいけない」と遺言してです。1993年9月、経営に嫌気を感じたマウリツィオは、全ての株をアラブ資本に売却します。 売却金額は、1億6000万ドルから1億7000万ドルと言われています。
こうして、醜い血族間の争いの末、1993年にグッチ一族は完全にブランドから撤退しました。
失われたブランド「グッチ」最後の結末
グッチから一族撤退の2年後、それはミラノでマウリツィオのいつもと同じ仕事の日でした。彼がロビーを散歩していると、4発の銃声が鳴りました。3つの弾丸が彼の背中に入ったのです。最後の弾丸は彼の顔の横を通っていきました。 現場からは、40代の男が逃走しました。 犯人は、マフィアか?それとも、会社を???事件は、迷宮入りと思われました。
彼の死後、警察は当初、グッチ家の一員が関与していたと疑いました。事件の頃、パトリツィアは、夫マウリツィオと別居中でした。 彼から渡された生活費は、毎月1億リラ(約750万円)でした。 しかし、浪費癖が身についたパトリツィアは、その程度の生活費では満足することができておらず、さらに別の女性との結婚を周りに言っていたからです。
1997年1月31日未明、ついに捜査員が、マウリツィオ暗殺の犯人が住むミラノの高級マンションに踏み込みます。 待ち伏せしていた報道陣が、カメラのフラッシュをたきます。元グッチ会長夫人パトリツィア逮捕の瞬間でした。碧色の瞳はうつろで、足取りは重く、手にはグッチのバックだそうです。
彼女がマウリツィオの殺人とは何の関係もないと主張したにもかかわらず、警察がすべての点をつなごうとしたので、パトリツィアは起訴されました。裁判の間、捜査官はパトリツィアに誰かに元夫を殺させることを考えていたことを認めさせました。しかし、彼女は行動に移していない単なる思いであると主張しました。
検察官が法廷で提出した証拠には、パトリツィアの日記がありました。 マウリツィオが撃たれた日に、「パラダイス」というギリシャ語の「楽園」という単語がありました。 暗殺から1年後、警察はパトリツィアをマウリツィオの死に結び付けた証拠や金融文書の跡を見つけるのに苦労し続けました。
しかし、 事件後、マフィアとの間で「暗殺の報酬額」によるトラブルで、パトリツィアによる計画が発覚したそうです。
「Vouge」がインタビューした服役中のパトリツィア
気分はまだグッチ家の一員のままなの。何年も何年も世界中を駆け回って、様々な宝石を買い漁ったの。またあの生活に戻りたい。そしてグッチというブランドとまた関わっていきたい。
と言っています。
父を裏切ったパオロは、1987年独自のブランドで念願の勝負にでますが、一年も続かず挫折します。1995年パオロ死去しますが、やはりグッチ家の壮大な墓に入れず、リゾート地に埋葬されました。海に向いた風の強い丘にその墓はあります。家族の裏切り者は、死後もけっして許さない。アルドの怨念の凄まじさを感じます。
グッチ再燃の兆しとその功労者
本名 | トムフォード(Tom Ford) |
生年月日 | 1961年8月27日 |
出身地 | アメリカ合衆国テキサス州オースティン |
know for | ファッションデザイナー、映画監督 |
公式サイト | https://www.tomford.com/ |
@tomford | |
@TOMFORD |
グッチオの他界後、長い期間、血族間闘争が続きますが1990年から既成デザイナーとして雇われていたトムフォードが1994年、クリエイティブディレクターに就任しました。以前の廃盤になった、オールドグッチの60~80年代のアクセコシリーズをイメージして、ミニマムGGやバンブーシリーズ、フローラなどの要素を再構築し、世界中にグッチブームを再燃させます。
1994年にアメリカで経営の教育を受けたドメニコデソーレをGucci America Inc.の最高経営責任者に、さらに1995年には
Gucci Groupの最高経営責任者に任命されました。彼はすぐに、ブランドの露出過度とそのイメージの安らぎを見た10年を逆転させるために、ライセンス、フランチャイズ、そしてセカンドラインを強化し始めます。
トムフォードはドミニコデソーレの強力な支持を得て、グッチの一族経営のよかった時期を維持しようとしていました。1994年にクリエイティブディレクションを担当してから1996年までには既製服、ビジュアルマーチャンダイジング、包装、インテリアデザイン、広告など、会社のあらゆる面を監督しました。
「トムフォード期」グッチ完全復活
フォードとデソーレは、以前のグッチの評判を取り戻すのに苦労したようですが「攻撃的で野性味のある”セクシー”さ」を目指した彼らの活躍でグッチはトップブランドに返り咲き、奇跡の再生を果たします。 パトリツィア逮捕の1997年には純利益は、1億5000万ドル(前年比85%増)にもなっていたそうです。
1997年には世界中にグッチの店舗が76店もあり、ライセンス契約もたくさんありました。グッチグループ(Gucci Group)が「イヴサンローランリブゴーシュ(Yves Saint Laurent Rive Gauche)」、「ボッテガヴェネタ(Bottega Veneta)」、「ブシュロン(Boucheron)」、「セルジオロッシ(Sergio Rossi)」を買収し、「ステラマッカートニー(Stella McCartney)」、「アレキサンダーマックイーン(Alexander McQueen)」、「バレンシアガ(Balenciaga)」の一部所有していたとき、フォードはデソーレのために尽力しました。
フォードとデソーレは2001年までに重要なビジネス上の決定に対する責任を共有し、フォードは同時にイヴサンローランとグッチでデザインを指揮しました。