“History of Dior Homme”
2001年の秋冬からスタートと意外と歴史の浅いディオールオムですがその実績は計り知れないものがあります。特に、カリスマデザイナーがファッション業界に巻き起こした風は現在のファッション業界にいまだに影響を与えています。
昨今の、アーカイブの高騰により過去のデザイナーズブランドのクリエイションが見直される中、人気爆発中のラフシモンズのアーカイブに引けをとらない人気のアーカイブがエディ期と言われるエディスリマンがデザイナーだった2001~2007年までのディオールオムのアイテムです。
アーカイブのみを揃える「アーカイブストア」でもフューチャーされ、ポップアップも行われるほどの人気と希少性はコレクターも垂涎ものでしょう。そんなブランドのディオールオムの歴史をドドンと紹介しようと思います。
クリスチャンディオールとは
クリスチャンディオールとディオールオムが関係ないと思っている方も多いみたいです。そこでクリスチャンディオールの歴史について軽く触れていこうと思います。
クリスチャンディオールの概要
創始者 | クリスチャンディオール |
設立 | 1946年12月17日 |
本拠地 | パリ、フランス |
業種 | 小売業 |
拠点数 | 210 |
部署 | クリスチャンディオールパルファム クリスチャンディオールコスメティック ディオールオム |
子会社 | クリスチャンディオールクチュール |
公式サイト | dior.com |
@dior | |
tumblr | dior.tumblr.com |
ブランド設立まで
クリスチャンディオールは1905年1月21日、フランス北部の海辺の町グランヴィルで生まれました。大きな肥料メーカーのオーナーであるアレクサンドルルイスモーリスディオールと彼の妻、イザベルカルダモンの間に生まれた5人の子供のうちの2人目の子供でした。
幼少期にパリに引っ越し、勉強に励んでいた彼の家族は外交官になることを望んでいたようです。しかし、彼自身はアートが好きで芸術に関わりたいと思っていました。そして彼は建築家になりたいと思いましたが、父親からの反対により1925年にエコールデサイエンスポリティックスに入学し、外交官として働く道に進みました。
1928年、エコールデサイエンスポリティックス卒業後、父親から受け取ったお金で小さなアートギャラリーを開きました。父親は家族の名前がギャラリーに表示されないことを条件に財政支援することにしました。
数年間で、ディオールのギャラリーはジョルジュブラック、パブロピカソなど著名な芸術家の作品を扱っていましたがディオールの兄と母親の死、父親の事業の経営破綻が原因で1931年にギャラリーを閉じることになりました。
ギャラリー閉鎖ののち、彼は帽子とドレスを描いていました。数年後、ディオールはパリのクチュリエ、ロバートピゲのデザインアシスタントとして雇われました。しかし、翌年に第二次世界大戦が始まり、ディオールはフランス軍の将校として徴兵されました。
1946年クリスチャンディオール誕生
1940年にフランスがドイツに降伏した後、ディオールはパリに戻り、すぐにフランス出身のクチュリエ、ルシアンリロングに雇われました。リロングのデザインハウスはナチスとフランスの女性をドレスアップさせていました。
1946年12月16日、ディオールは、戦争の末、繊維製造業者のマルセルブサックの協力を得て、自身のブランドを立ち上げました。
ブランド設立後、、、
ディオールのデザインはパリの女性たちの精神からインスピレーションを得ています。彼の作品の贅沢さは、ヨーロッパの厳しい戦後の現実とは対照的であり、パリを戦争前にあった活気あるファッションの中心地としてもう一度立ち上がる力を与えました。
そしてディオールは女性のファッションに革命をもたらし、ハリウッド、アメリカ、そしてヨーロッパの貴族から多くの著名なクライアントを得ました。その結果、第二次世界大戦後にファッション界の中心地としての地位を失っていたパリは、以前のようなファッションの活気を取り戻しました。
そのデザインはトムブラウン、ミウッチャプラダ 、ヴィヴィアンウエストウッドのようなデザイナー達にも影響を与えています。
彼がタイム誌の表紙に載ってから数ヵ月後の1957年、クリスチャンディオールはイタリアを訪れてモンテカティーニの町で休暇を過ごしていました。同年10月23日に、彼は彼の3度目の心臓発作に苦しみ、52歳で死亡しました。
死因についてはいくつか逸話があり、彼が魚の骨で窒息した後に心臓発作で死亡した、カードゲームをプレイした後に心臓発作で死亡した激しい性的な出会いの後に心臓発作に屈したなどさまざまな噂が飛び交っています。しかし今日まで、正確な状況は明らかにされていないままです。
彼の死後は、ディオールのもとで4年間のアシスタントの経験を積んだイヴサンローランがヘッドデザイナーを引き継ぎました。
2001年ディオールオム誕生
ディオールオム(Dior homme)は2001年秋冬のパリコレクションからクリスチャンディオールのメンズラインとして発足したブランドになります。
クリスチャンディオールは約70年と非常に歴史のある老舗ブランドですがディオールオムとして設立されたのは極めて最近の話なのです。
ディオールオム発足以前は、「ディオールムッシュ(Dior MONSIEUR)」というメンズラインがありましたが、当時は現在のようにメンズファッションを牽引するようなブランドではありませんでした。そんな低迷していたメンズラインから新たに心機一転、誕生したのがこのディオールオムというわけです。
エディスリマンが手がけるメンズライン立ち上がり
当時、イヴサンローランのプレタポルテライン、「イヴサンローラン リブゴーシュ」のメンズ部門デザイナーをしていたエディスリマンがディオールオムの立ち上げのアーティスティックディレクターに就任しました。
就任直後のファーストシーズンからファッション業界にセンセーションを巻き起こし、世界中にエディスリマン、ディオールオム、両者の名を轟かせます。
エディスリマン
男たちにもっと洗練され、もっと魅力的なものになって欲しい
と語るエディのファーストシーズンは黒をメインにレザータキシード、細身のジャケットを中心とした非常にタイトなシルエットの作品を発表しました。
このスタイルは世界中のデザイナーに影響を与え、一つのトレンドを生み出しました。この勢いは現在に至るまで続いており、エディの活躍を受けて、2002年のCFDAにより「デザイナー・オブ・ジ・イヤー」に選出されました。
当時は、今でこそ当たり前になっているテーラードジャケットやスキニーパンツを取り入れたスタイルは街中に溢れ、デザイナー界の皇帝と言われるカールラガーフェルドもエディの手がけるディオールオムを着たいがために40キロものダイエットをしたことは有名な話です。
エディスリマン退任後のデザイナーは??
ディオールオムの立ち上げ当時から、アシスタントにはランバン(LANVIN)のメンズデザイナーのルカオッセンドライバー(Lucas Ossendrijver)、ニコラアンドレアタラリス(Nicolas Andreas Taralis)といった優秀なデザイナーの卵がいました。
そんな中、エディの右腕として自身のブランド設立の2004年9月までディオールオムに在籍した経験のある「クリスヴァンアッシュ」が2007年4月にエディスリマンの後任デザイナーに任命されました。
クリスによる新たなディオールオムは、クラッシックでエレガントな要素を取り入れつつも、エディのディオールとはまた違ったコレクションが多く発表された一方で、よりクラシカルでスーツに重きを置いたコレクションにシフトしながらも、クリスチャンディオールの手紙をモチーフにしたり、ディオールが好んでいた鈴蘭をモチーフにしたりと、リスペクトするようなデザインを取り入れたりが人気を博しました。
2018年キムジョーンズ抜擢とこれからのディオール
11年間のクリエイティブディレクターを辞任した「クリスヴァンアッシュ」の後任として2018年からのディオールオムにはビッグメゾンである「ルイヴィトン」を7年間率いてきた「キムジョーンズ」が抜擢されました。
さらにキムジョーンズは「アンブッシュ(AMBUSH)」のデザイナー「YOON」をジュエリーデザイナーに任命し、2018年6月キムジョーンズによる新たなディオールオムの初コレクションとともに、YOONのジュエリーも発表しました。
2019年の春夏コレクションからは「ディオール オム」が、ブランド名をウィメンズラインとともに「ディオール(DIOR)」として生まれ変わることが決まり、これからのキムジョーンズのクリエイションに期待が高まります。