ナイキといえばバスケットボールのシューズ、、いわゆるバッシュというイメージが個人的には非常に強いのですが。これはあまりにもナイキ=エアジョーダンのイメージが非常に強いからだと思います。
そんなナイキですが。今や世界一のスポーツブランド、いや今やファッションブランドへと進化したともいえます。そしてバスケだけではなくゴルフ、サッカーと様々なスポーツのシューズやウエアをリリースしているのですが。
ゴルフシューズの人気も非常に高く、機能性だけではなくデザイン性においてもゴルフシューズブランドの中ではずば抜けてお洒落でファッショナブルなブランドです。そんなナイキのゴルフシューズの中でもぜひ一度はマイゴルフシューズの1つとして手に入れたいのがナイキゴルフシューズのエアジョーダンシリーズです。
ジョーダンシリーズのはじまりについて
バスケの神様、、マイケル・ジョーダン
伝説のエアージョーダン1(Air Jordan 1)
発売日:2017年2月10日午前9時、ナイキストア オンライン限定で発売。
価格:21,600円 (税込)
カラー:シカゴ(赤黒)、ホワイト(白)
ジョーダン1のマル秘エピソード
via:jordansdaily
▲NBAがNikeに送った通知。「1984年10月18日頃に、ジョーダンが赤と黒のNikeバッシュを履くのを禁止にした」と記載されている
1984年にバスケ界に登場し世間をアッと驚かせたマイケルジョーダンですが。その時に履いていたのがこのエアージョーダン1です。当時はこのシューズの赤×黒のカラーリングはNBAで禁止されており毎試合5000ドル、今にして約50万弱の罰金をナイキが支払っていたそうです。
*当時のNBAのユニフォーム規則で、白以外のシューズは認められていませんでした。『ユニフォーム統一性に関する規約』です。しかし、ナイキが仕掛けたのは、この規約を逆手にとったプロモーションでした。
履いた場合は毎試合5000ドル(約40万円)の罰金が課せられることになっていたが、この規則を無視してジョーダンはシリーズの赤黒のスニーカーを履き続けて話題になった。
ナイキはこの大きな宣伝効果を活用し、ジョーダンのルーキー時代の罰金をすべて支払ったと言われている。彼が履いた黒と赤の組み合わせのスニーカーは、『Banned(禁じられた)』というニックネームが付いたほどだ。規則違反にもかかわらず、それを履き続けたジョーダンの反骨精神に、アメリカの青少年たちがさらに魅了された
まあ当然ですが。禁止されている。罰金を支払う。他の選手は履いていないということでジョーダンのプレイだけではなくこのエアージョーダン1にも相当な注目が集まったのは当然の流れでした。この当時からマーケティングやプロモーションにおいてナイキは群を抜いていたのかもしれません。
発売当初のエアージョーダン1のテレビCM
実はアディダスマニアだったジョーダン
ナイキといえばジョーダン、マイケルジョーダンといえばナイキというぐらいブランド、イメージが NIKEの素晴らしいマーケティング戦略により我々エンドユーザーにはうまく植えつけられているんですが。
実のところ当初のジョーダンは“アディダス(adidas)が好きでアディダスと契約したい”だったことが、ファンの間では知られた話です。しかも、ただのアディダス好きってレベルではなく“アディダス・ナッツ(アディダス信者)”というほどのアディダスマニアだったんです!!!
なぜジョーダンはナイキに、、、⁉︎
全て書くと非常に長くなるので出来るだけ短く、、NIKEのマーケティングディレクター、Rob Strasser氏(ロブ・シュトラッサー)が当時University of North Carolina at Chapel Hill(ノースカロライナ大学チャペルヒル校)でプレイしていたマイケルジョーダンを一目見た時に
『こいつしかいない!!』
というマーケッターの直感から当時売り上げが落ちていたナイキはマーケティング予算が$500,000 のなかPhil Knight(フィルナイト)を説得し全額をマイケルジョーダンとの契約に投資するという大きな賭けに出ました。
アディダス創業者、アドルフ(アディ)・ダスラー(Adolf “Adi” Dassler)の死
1978年にアディダス創業者であるアドルフ・ダスラー氏が死去したことにより、ダスラー氏の妻、息子、娘が各部門を任されたことにより会社の権限、意思決定がより複雑になりジョーダンとの契約についても進捗が芳しくありませんでした。
ライバル社と比較にならないNIKE(ナイキ)破格の契約条件
その当時の契約条件では破格の現金で年間 $500,000(約1億円)、5年間の契約をナイキは提示。一方で当時、アメリカのシューズブランドの中でトップの座に君臨していたコンバースは年間$100,000(約2400万円)の提示でした。
そしてNIKEの契約条件はこれだけにとどまらず、破格の年棒だけではなく株式オプション、その他の取引条件などを含めると5年間で$7,000,000(約15億円)以上を受け取れるというものでした。
積極的で情熱的なアプローチだけではなく、金銭やインセンティブなどの報酬においても他社を圧倒していたのでした。もちろんこの条件には3つの必要条件を盛り込まれていたのでした。
- 「新人王獲得」
- 「オールスター出場」
- 「1試合20得点以上を平均」
のいずれかを3年以内に達成することです。NIKE(ナイキ)とすればマーケティング予算のほぼ全額をマイケルに投資(賭け)するわけですから当然といえば当然です。
そしてこの時の結果が、、、そうです、皆さんご存知の通りジョーダンは、ルーキーシーズンに28.2得点、オールスター選出、新人王獲得とナイキが提示した条件をすべてクリアするという恐らく期待した以上のいや想像もしていなかったパフォーマンスをリターンとしてもたらしたのです。
マイケルジョーダンのエージェントDavid Falkとの関係
NIKE(ナイキ)のマーケティングディレクター、Rob Strasser氏(ロブ・シュトラッサー)氏がPhil Knight(フィルナイト)氏を説得し当時のマーケティング予算のほぼ全額をジョーダンに投資したのはすでにご紹介致しましたが。
マイケルジョーダンのエージェントである、David Falk(デビッドフォーク)氏とRob Strasser氏(ロブ・シュトラッサー)氏は昵懇の仲でありDavid Falk氏はRob Strasser氏にジョーダンをNIKE(ナイキ)との契約を水面下で進めておりました。
そんな中、当の本人であるジョーダンはナイキには全く興味を持たず”アディダスとの契約についてだけ進めてくれ”と言うほどでした。
そんな状況からDavid Falk(デビッドフォーク)氏はジョーダンの両親を説得する方法を選びすぐに両親に面談しプレゼンテーションしました。
参照:
A young Michael Jordan wanted Adidas for his shoe deal. Adidas passed.
David Falk – wikipedia
ジョーダンがゴルフを始めたのも1984年
“MJ introduced his provocative style of play to professional basketball in 1984, and the Air Jordan I shocked the world at the same time,” says Gentry Humphrey, VP Nike Golf Footwear. “Interestingly, Michael started to take up the game of golf in 1984, the exact same year Nike started to develop the Air Jordan I.”
“The Air Jordan I was the first sneaker that really pushed the limits on what was acceptable,” recalls Michael Jordan. “It’s like being a young kid, when his parents say he can’t do something but he wants to do it. I felt like I wanted to be different.”
参照:NIKE GOLF BRINGS AIR JORDAN I RETRO HIGH TO THE LINKS
Nike Golf Footwear副社長のGentry Humphrey氏によると1984年にプロバスケットボールの世界にシカゴブルズからスタートしたジョーダンは同年にナイキとの契約を締結。ロサンゼルスオリンピックではドリームチームの一員としてチームを金メダルに導きました。
そしてゴルフを始めたのもこの1984年 。伝説のシューズ、ジョーダン1の開発がスタートしたのもこの年です。