“#アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueenのブランド歴史”
モードの反逆児「アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueen」が歩んだブランドの歴史
近年大きな話題を呼んだ「マックイーン:モードの反逆児」、映画シーンにて有数のファッションブランドやデザイナーの半生を描いた映画はこれまで数多く存在しかくいうあの有名なイヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)も過去に取り上げられ世界中で大きな反響を呼ぶ事となりました。
そして今回からご紹介をする、かのファッションブランド「アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueen」も昨今映画としてデザイナー自身の半生を描いた内容が話題を呼び、すでに世界的にも支持される絶対的ブランドと君臨する彼らの「ブランド理念」や「歴史」、「デザイナーであるアレキサンダー・マックイーン自身の人生」を私のほうでも少しご紹介をしていきたいと思います。
ドラマチックな人生を翻弄した彼が創り出した今尚愛される世界ブランド「アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueen」、そのブランド歴史からまずは紐解いていきたいと思います。
ブランド名 | アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueen |
設立年 | 1992年 イギリス発祥 |
創立者 | アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueen |
公式サイト | https://www.alexandermcqueen.com/hu |
SNS | Alexander McQueen(@alexandermcqueen) Instagram Alexander McQueen – ホーム|Facebook |
ハッシュタグ | #アレキサンダーマックイーン hashtag on Twitter #alexandermcqueen hashtag on Instagram |
クリエイティブディレクター・デザイナー | アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueen サラ・バートン – Sarah Burton |
愛用する有名人・著名人 | ジゼル・ブンチェン、サラ・ジェシカ・パーカー、レネー・ゼルウィガー、ビヨンセ、ブレイク・ライヴリー、ジェイミー・フォックス、YOSHIKI |
1992年の設立から翌年93年のロンドンコレクション発表までの設立道
今やアレクサンダー・マックイーンという名前を知らない人はいないんじゃないでしょうか?
それほどまでに今のファッション業界の最先端を走る傍、絶対的な頂点に君臨するモードの帝王であり反逆者、異端者としても呼ばばれているこちらのブランド。すでに海外や本国イギリスではストリ0とに立つ現代のファッションラバーから若者、その先にはモデルやセレブリティまでに愛され続けられているブランドとなっています。
そんな彼らのブランドの創立は1992年と、今までにいたり約25年の歳月を過ぎた歴史を持っており老舗ブランドには敵わない時の経過を博してはいるものの、どれくらいの時間ブランドが生きてきたのかではなく「その歳月の中どう生きてきたのか」、彼らが成して遂げてきた数々の偉業を見れば時間というものはあまりに無価値であることが一目瞭然です。
1992年の創立を迎え、アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueenは翌年の93年にはブランド初となるコレクションを発表、当時を振り返れば主流であったクラシックスタイルに現代のスタイリッシュでどこかインダストリアルなモードの定義をその時代に提唱し大反響を生みました。 賞賛する声の中には賛否両論も多かったと言われているものの、賛同する者たちが次第に増えていったのは時代の流れを見ても言うまでもなく真っ当なものだったと言われています。
二極面に立つ異なるファクターを縫い合わせて生まれた攻撃的でありメッセージ性のあるデザイン
アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueenの特徴と言えば何と言ってもその型にハマらない奇抜なデザインとルックが最大の魅力であり、創立から現在に至るまでその意思は途切れることなく脈々と受け継がれてくるものとなりました。
イギリスというバーバリー(BURBERRY)を生んだ歴史深い国でありながらも、一方ではパンクロックとカウンターカルチャーを体現したヴィヴィアン・ウェストウッド(Vivienne Westwood)というアングラ的要素も兼ね備えた場所で、アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueenは従来にフォーマルなモードファッションへ革命を起こす事となりました。
それまでのスーツルックをベースとしたモードファッションには、ウィメンズであればドレスも一応展開はするもののそこには一切のユニークが無くどれも平坦とした代わり映えのない物であった中に、デザイナーであるマックイーンは2つの全く異なる素材を採用、同時に複合させるなどして奇抜を超え異質とも言われた新時代のモードファッションを創り上げ着々と進化をしていきました。
鬼才「アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueen」という1人のデザイナーの歴史
続いてはファッションデザイナーとしてのアレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueenという1人の人物の人生とデザイナー半生をご紹介していきたいと思います。
今回ご紹介をしているアレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueen自身、天才と呼ばれ世界中のアーティストから著名人、ファッション業界人からも讃えられて愛され続けられた1人の男性が何故40歳という若さで自らの命を断ったのか。後半では「マックイーン:モードの反逆児」という映画についてもご紹介をしています。
1969年から波乱万丈なファッション人生を歩み初める第一歩の幼少期
1969年、イギリスはロンドンのお世辞でも裕福な家庭や都心部ではなく庶民街にてタクシー運転手として生計を立てている父親の家にて、6人兄弟の末っ子として生を受けたアレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueenは、末っ子ということもあり兄弟や両親からはこれ以上にない愛情を受け育ってきたと後に語っています。
幼少の頃から活発だった男の子は、他の子と何一つ変わらない幼少期を過ごし小中高へと進学、しかし彼が16歳となった時に当時通っていた高校を退学することとなります。強制退学という訳ではなく、自らの意思による退学「いわゆる自主退学」を告げ彼は学校という青春の空間から1人身を引く事となりました。何故なら彼は勉学以上にファッションを学びたいという思いを真っ当したかったからなのです。
ファッションに対する情熱が息吹き始めたインダストリアル的な青年時代
自主退学後にはすぐにサヴィル・ロウの仕立て職人の見習いからファッションのキャリアをスタートさせることとなりした。
当時はテレビや新聞にて「仕立屋が人手不足」というニュースが数多く報道されてり、それまではパブ(日本でいうバー)にて働いていた彼は、当時のこの報道を耳にし直ぐに足早と仕立屋へ向かいそこからファッションキャリアを着々と積み上げていくことになります。
そこから月日は経ち、アンダーソン&シェパードやギーブス&ホークスなど英国王室御用達の高級紳士服店にてテーラリングをおよそ3年間学び終えた彼は舞台衣装の製作も手がけ初めることとなります。この当時の経験が後に彼の人生の転機を作る大きなものとなることは彼自身も知る由はなかったでしょう。そして勤め先とのいざこざが起き一度はイタリアまで行き、ファッションデザイナー業も学び始めていた彼は、一度ファッションデザインの修士号を取得するために一度ロンドンにあるセントラル・セント・マーチンズ大学院で学び、1991年の卒業コレクションの際に「イザベラ・ブロウ」という当時のVOGUE編集者でありスタイリストでもあった彼女の目にとまり、卒業制作はすべてイザベラ・ブロウによって買い取られ、この時彼女が彼の卒業コレクションを5000ポンドで買い取ったことも大きな話題となり、アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueenのデビュー話はトントン拍子で決定することとなりました。
自身の冠ブランドを立ち上げ2000年以降業界を手中に納めた若き鬼才
その後翌年の1992年には自身のブランド「アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueen」を立ち上げ1993年にはロンドンコレクションで華やかなデビューを飾ることとなります。
デビューから休むことなくブランドの前進のみを探求し続けた彼は、1996年に主任デザイナーであったジョン・ガリアーノの後任としてジバンシィ(GIVENCHY)のレディースラインオートクチュール及びプレタポルテの主任デザイナーに就任。ジバンシー内での活躍が功を称し「ブリティッシュ・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」という大業をを弱冠26歳で受賞することとなります。その後の1997年から2001年、2003年にも同賞を受賞し続けた彼は、「まず、ブランドの歴史やユベール・ド・ジバンシィの時代を全て忘れることからはじめました」というアレキサンダー・マックイーン本人のコメントの通り、ジバンシィ就任後も自分流のデザインを軸としたこれまでのブランド展開に間違いは無かったと語っています。
オートクチュールでモデルを使わずマネキンを使用したり、ファッションショーにおいてもモデルの顔にペイントを施し、モデルの感情や表現力を取り払ったスタイルをとるなど、今までにない様々なことに挑戦し続けてきた彼は、2000年にジバンシィの主任デザイナーを更迭されると翌年グッチにクリエイティブディレクターに就任し2002年には自身のブランドとしてパリコレクションにも参加しました。
そして40歳の若さで旅立ち彼の意思を継ぐ者に後世を託した「アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueen」
その後も様々なブランドとのコラボレーションを行っていた彼ですが、2010年のある日、それは突然知らされ全世界を驚愕させることが起きました。
その年2月、アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueenは40歳の若さで自殺をしこの世を去ってしまったのです。当時は報道も錯綜しており、自殺の理由や憶測が様々な方面で上がっていましたが現在になって彼の遺書を発見したことで何故彼が自らの手で命を絶ったのかを理解することができます。
検死結果を告げた検死官は「精神のバランスが乱れた状態で自殺をした」ことを確認し、彼の専属医師でもあったポール・ナップマン医師は彼が長期にわたり不安と鬱の傾向を持っていたことも明かしました。そして同医師によると、遺書は彼の愛読本の裏に残されており「埋葬に関する希望」「犬の面倒を見て欲しいとの希望」が記されていたと言われています。
その後も、彼の精神科医だったスティーブン・ペレイラは「彼は間違いなく作品作りにプレッシャーを感じていた」「デザイナーとしての仕事は諸刃の剣で、彼が人生で唯一達成感を感じていたことでもあり、ショーが終わると彼は大抵落ち込み、孤立を感じていた」と述べました。
悲劇を嘆き続けれるような暇がなかった当時のブランドは、後継者の選別を決行し1996年からアレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueenに参加し、2000年からウィメンズウェアのヘッドデザイナーであったサラ・バートンがクリエイティブディレクターに就任。
翌年彼女はブリティッシュ・ファッション・アワードの「ベスト・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞し今もなおブランドとマックイーンの意思を受け継ぎ日々活躍しています。
話題沸騰!全国上映中の映画「マックイーン:モードの反逆児」も大反響を呼んだ
1995年、アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueenの「ハイランド・レイプ」というタイトルコレクションにて、胸や下半身を露出したスコットランド風の衣装をまとったモデルがランウェイを千鳥足で歩いているのを目にしたロンドンのファッション業界は衝撃を受けました。
「自身のショーでは日曜日のランチを楽しんだような感覚を持ってほしくない」「嫌悪感、もしくは爽快感を持ってほしい」、そう語り異例の出世とスピードでファッション業界のトップへと上り詰め絶頂期を迎えたところで自らそのファッション人生に幕を下ろしたアレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueen。
2019年の4月5日に全国上映が決定した映画「マックイーン:モードの反逆児」も今回のこの記事と同様に、アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueenの半生やブランド歴史をより映像としても学べ知れるものとなっています。是非合わせて見られてみてもいいのではないでしょうか。
まとめ
いかがでしたが?
今回はアレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueenのブランド歴史やデザイナーの彼自身の半生、自殺までといったセンシティブな所までご紹介をしてきましたが、もちろんこれ以上にも詳しい話やエピソードはごまんとあります。是非上記でご紹介をした映画「マックイーン:モードの反逆児」も一緒にチェックし、より一層アレキサンダー・マックイーン – Alexander McQueenの魅力について一緒に探っていきたいものです!