コムデギャルソンの歴史とデザイナー「川久保玲」の生い立ち

“#History of Comme des Garçons”

日本が誇るデザイナーのひとりに川久保玲というデザイナーがいます。そのデザイナー川久保玲が創立したブランドが「コムデギャルソン(COMME des GARÇONS)」通称”ギャルソン”です。

ニューヨークのメトロポリタン美術館では「川久保玲 / コム・デ・ギャルソン」展が開催され、ここでの現役デザイナーにフューチャーをあてた展示が開かれるのは異例で、1983年に展示されたイヴサンローラン以来の快挙でもあります。

コムデギャルソンのイメージは”奇抜”、”前衛的”、”どう着ていいのかわからない、、、”などの言葉にまとめることができると思います。それなのに、なぜ川久保玲、コムデギャルソンは注目されるのか、いったい何がすごいのか?コムデギャルソンの歴史から川久保玲の経歴まで紹介して紐解いていきます。

ちなみに 2019年更に注目されること必須なサカイ(Sacai)のデザイナー阿部千登勢もまたコムデギャルソン、川久保玲のもとで学び今日の成功を手に入れている。

コムデギャルソンの概要

ブランド名コムデギャルソン(COMME des GARÇONS)
業種ファッション
創業日1969年
創業者川久保玲
本社東京都港区南青山
店舗数200+
主要デザイナー川久保玲、渡辺淳弥(ジュンヤワタナベ)、栗原たお
ライン数16
公式サイトcomme-des-garcons.com
Instagramcommedesgarcons

いろんなブランド服を買っていても結局コムデギャルソンを買っている人が多いことから”ファッションの帰着点”と称されるコムデギャルソンのファショコン通信のブランド紹介文では、こう言われています。


人目もはばからずギャルソン嫌いを公言する人は、考えられるあらゆる批判に配慮した、一端の論文がかけるくらいの知識を得ておく必要があるだろう

ファショコン通信

川久保玲のプロフィール

川久保玲は、インタビュー嫌い、写真嫌いで知られメディアの前にはあまり登場せず、マスコミからの取材に滅多に対応しないため、実像の多くが謎に包まれています。

名前川久保玲
性別女性
生年月日1942年10月11日
出身地日本、東京
最終学歴慶應義塾大学-文学部哲学科
職業ファッションデザイナー
役職株式会社コムデギャルソン-代表取締役社長
実績コムデギャルソンの創業、運営
受賞歴日本・毎日ファッション大賞(1983年)
フランス・シュバリエ賞(1992年)
日本・芸術選奨(2001年)
日本・朝日賞(2003年)
フランス・国家功労章(2004年)
アメリカ・CFDA賞(2012年)

”モード界の女帝”川久保玲は、今もなお全速力でモード界の最前線を走り続けています。ファッションデザイナーとしての才能は今さら言うまでもないが、彼女は経営者としての才能もあります。

デザインと経営の両方の才を持ったファッションデザイナーは稀で、クリスヴァンアッシュやバンド オブ アウトサイダーズが、高いデザインの才能を持ちながらもブランドをクローズするという目にあっているのです。

そうした若手デザイナーの失敗を尻目に、川久保玲は独立資本で16ものブランドを抱える“CDG帝国”を築いています。どこかの傘下に加入するのが業界の通例のなか、彼女は世界的に見ても異例であり、偉業でもあります。

幼少期

1942年10月11日、日本の東京に生まれ3人兄妹の長女で唯一の女の子でもありました。父親は慶応義塾大学の職員でした。1960年に彼女は慶応義塾大学文学部哲学科に入学します。彼女もまたエディスリマンと同じく秀才だったようです。 そして川久保玲氏の母親は英語教師として子育て後に職場に復帰することを望みますが。当時の男性社会の中、彼女の父親もまたそれを望まず結果的に両親が離婚することになります。

この離婚の際にもちろん紆余曲折あったことでしょう。家長である夫であり父親の発言は絶対であり議論の余地はないというのが当時の日本社会の風潮でしたが。川久保家ではそうではありませんでした、彼女の母親は仕事に復帰できなければ離婚すると言い結果的に離婚して高校教師への道を歩むのです。この当時の母親を見て川久保玲氏が”反骨精神”や当時の日本社会の風潮や男性と女性の在り方などといった事への沸々としたフラストレーションがあったことは間違いないでしょう。

そしてこの幼少期の体験、経験こそが今日の川久保玲氏、そしてコムデギャルソンの世界観と約半世紀50年にわたりブレないブランドの強さが隠されているようにも思われます。

キャリアまでの日々

卒業後、株式会社旭化成宣伝部に入社するも、3年で退職したのち、フリーランスのスタイリストとなりました。しかし広告写真撮影の際、スタイリストとして川久保がイメージした洋服がどうしても見つからなかったため、仕方なく自分自身で洋服を作りました。

以来、必要に応じてケースバイケースで服作りを始め、スタイリストながらデザイン・パターン・縫製・仕上げまでの全てを独学で手掛けるようになりました。

エディスリマン」、「ラフシモンズ」など天才と称されるデザイナーも川久保玲と同じく独学で、服飾に関する教育は受けていません。

コムデギャルソンのスタート

1969年、フランス語で「少年のように」の意味の「コムデギャルソン」を立ち上げ、婦人服の製造販売を開始し、1973年には株式会社コムデギャルソンを設立しました。実質的な意味は「少年の冒険心のように」のようです。

1975年に東京コレクション、1978年にはメンズライン「コムデギャルソン オム」を立ち上げ、1981年にはパリコレクションに参加しました。当時のパリではボディラインを意識したデザインが流行っていましたが川久保玲の提案するデザインは全くその流行りとは異なっているものでした。

そんな川久保玲の初コレクションは「ぼろ布のようだ」、「ヒロシマルック」などと揶揄されましたが、ノンセクシャルでアバンギャルドなデザインはファッション業界に大きな衝撃が走りました。

ヨウジヤマモトとの「黒の衝撃」

その翌年の1982年、川久保玲のパリで発表したコレクションはオートクチュールの頂点である世界のモード界を震撼させ伝説と言われています。

同時期に発表された山本耀司率いる「ヨウジヤマモト」と「コムデギャルソン」のコレクションは称賛の意味も込めて「黒の衝撃」、「ジャパネスクカジュアル」と言われました。しかし、世界中のファッションジャーナリストたちの評価は賛否両論さまざまでした。

川久保玲の提案するファッションは「洋服への冒涜」という否定派、「新しい女性の生き方」、「新しい美しさの提案」という賛成派で真っ二つに割れました。

パリでの賛否両論も日本では大きなムーブメントを起こし、「カラス族」、「ぼろルック」と言われ流行したのはだれもが知っていることではないでしょうか?

既成概念に挑む反骨精神「コムデギャルソン オム プリュス」誕生

1984年、男性服ブランド「コムデギャルソン オム プリュス」を立ち上げます。「男でも女でもない」をテーマに男性服においてもコムデギャルソンらしい既成概念にとらわれない男性服から「男らしさ」を取り除きました。

当時のメンズファッションの主流であった、パットで張った肩と正反対にシェイプされたウエストのシルエットに対して、川久保玲はゆるやかなシルエットの服を提案しました。その姿はファッションジャーナリストたちから、「自由を着る男たち」、「戦争をしない男たち」と言われ高い評価を得ました。

以降、メンズウェアの基本を崩すことなく、その枠組みを超えた新しいスタイルを提案すると、他のハイブランドからもフリルや大胆な花柄、スカートなども取り入れたメンズコレクションが発表されるようになりました。

その2年後、1986年にはアメリカ、ニューヨークに「Comme des Garçons S.A.S」社設立し、同年には自らのコレクション発表の中心地パリでコムデギャルソン写真展「MODE et PHOTO」を開催しました。

翌年には「コムデギャルソン オム ドゥ(COMME des GARÇONS HOMME DEUX)」、「コムデギャルソン ノアール(COMME des GARÇONS noir)」立ち上げました。

さらにその翌年の1988年、コムデギャルソンの専用ブランド誌『Six sense』、「コムデギャルソン シャツ(COMME des GARÇONS SHIRT)」の立ち上げなどコムデギャルソンは活動の幅の拡大に成功しました。1991年にはヨウジヤマモトと合同でメンズコレクション展「6.1 THE MEN」を開催しました。

1990年代のコムデギャルソン

1980年代、パリで世界デビューを果たし「黒の衝撃」と呼ばれるセンセーションを巻き起こしたコムデギャルソンですがそれ以来、1990年代のモード業界で黒が一般的なものになり、川久保玲らの提唱した黒の持つ「色彩の否定・反抗」の意味合いが薄れました。

そのため今度は一転し、赤などのカラフルな色彩を打ち出し、他ブランドと一線を画すコレクションを展開していきます。これは赤を「唯一の色彩と他色の否定」として捉えたコレクションでした。

このようなセンセーショナルや怒涛のブランド拡大はこの後も行われ、1992年、フランスの芸術文化勲章受賞、イギリス人のエイドリアンジョフとの結婚など幸せなニュースがあった年に「ジュンヤワタナベ・コムデギャルソン(COMME des GARÇONS JUNYA WATANABE)」を立ち上げました。

1984年にコムデギャルソン社に入社して以来、同社を支える重要なデザイナーの一人となり、現在は副社長を務めているのが渡辺惇弥です。そんな彼が率いるのが「ジュンヤワタナベ・コムデギャルソン」というわけです。

2002年、「デザインしない」をブランドコンセプトにした「プレイ・コムデギャルソン(PLAY COMME des GARCONS)」がスタートしました。あの有名なハートのブランドロゴは、イラストレーターのフィリップパゴウスキーによるものです。

2005年には、社内デザイナーとして活躍していた栗原たおによる、「タオ・コムデギャルソン(TAO COMME des GARÇONS)」を設立や、ジュンヤワタナべ・マンのセカンドライン「アイ コムデギャルソン・ジュンヤワタナベ マン(eYe COMME des GARÇONS JUNYA WATANABE MAN)」も開始します。

2006年にはジュエリーの「コムデギャルソン・パール(COMME des GARÇONS PEARL)」、2007年には丸龍文人による「ガンリュウ(GANRYUU)」もスタート、2008年、「ブラック コムデギャルソン(BLACK COMME des GARÇONS)」立ち上げ。

2009年、「ザ ビートルズ コムデギャルソン(The Beatles COMME des GARCONS)」を立ち上げます。さらに2012年には、川久保玲のコンセプトがパンパンに詰まった「ドーバーストリートマーケットギンザ」などのオープンなどコムデギャルソンの動向は目を離すことが出来ません。

ファッション界のオスカー賞と称される、「CFDA(Council of Fashion Designers of America)ファッション アワード(国際賞)」を受賞、メトロポリタン美術館で、「Rei Kawakubo/Comme des Garcons  Art of the In-Between」展開催、アーカイブの再評価など今まででも十分なほどの活躍と変革ですが、これからもまだまだ活躍に期待したいところです。

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