”History of Raf Simons”
ラフ・シモンズといえばカニエウエスト、トラヴィススコット、リアーナと数多くの海外セレブやファッショニスタを唸らせる天才デザイナーRAF SIMONS率いる名ブランドです。しかしまだまだ知られていない事も多く、意外性もある彼の幼少期のトピックスなどラフシモンズ の誕生からブランド設立までを前編としてご紹介させて頂きます。
この記事を読むだけで天才デザイナー『ラフシモンズ』 と世界中のFashionistaの間で伝説となっているブランド『Raf Simons』に誰よりも詳しくなれるよう歴代のコレクション情報、ギャラリー画像、またプライベートなトリビアについても画像や動画、インスタ付きで詳しくご紹介しております!
後編では天才デザイナー「ラフ・シモンズ」が2000年会社閉鎖とブランドの活動停止。彼女との別れ、、からのジルサンダー、ディオール、アディダス、カルバンクラインを去るまでの軌跡をかなり掘り下げてご紹介しております。少しだけボリュームがありますが。前編と後編見ればあなたもラフシモンズ 取り扱いショップのスタッフさんよりも詳しくなれるかも??
ラフ・シモンズ(Raf Simons)プロフィール
名前 | ラフ・ジャン・シモンズ( Raf Jan Simons ) |
生年月日 | 1968年1月12日(わたし前日の11日生まれです^^運をおすそ分けしてほしいです^^) |
設立ブランド | ラフ・シモンズ(Raf Simons) |
設立 | 1995年 |
出身 | ベルギー・ヘンク(マルタン・マルジェラとは同郷です。) |
公式サイト | rafsimons.com |
@Rafsimons | |
Instagram投稿ハッシュタグ | #rafsimons #ラフシモンズ #ラフシモンズアディダス #ラフシモンズスタンスミス |
経歴 | 2018年12月21日:カルバンクライン デザイナー退任を公表 |
1968年1月12日:ラフ・シモンズ誕生
ラフ・シモンズは 、 1968年ベルギーのニールペルト郊外のヘンクまたはゲンク(Genk)という小さな町で生まれました。ヘンクは人口6万人と小さな町ながら自然、歴史と文化、そして芸術がさかんな工業都市で彼の天才デザイナー、、マルタン・マルジェラ”(Martin Margiela) も同郷であることは意外と知られていないかもしれません。
マルタン・マルジェラとの出会い
そしてラフ・シモンズもひと回りも年上のマルタン・マルジェラに青春時代に影響を受けたことは間違いないでしょう。シモンズの母親アルダがマルタン・マルジェラの母親と同じ村出身であることからそれは裏付けられるでしょう。
そんな彼の父親ジャックス・シモンズは軍の夜警であり、母親はハウスクリーナー というごくありふれた一般家庭に産まれたラフ・シモンズ。一人っ子であることを過去のインタビューで『淋しくはありませんでした、農場には10人の子供(牛と羊)がいましたので私は11番目の子供です。』とこたえており。幼少期は自然あふれる環境で育ったことが分かります。
またシモンズのインタビューの話しでは当時の彼が住む町の人口は約8000人たらずと非常に小さく何もなかったと答えています。
『 私の両親は、あなたがカルチャーと呼ぶことができるものとは全く関係がありませんでした。もちろん文化的な背景もありません。また私たちの村には映画も美術館もギャラリーもブティックもありませんでした。私は明らかに魅力やインスピレーションを感じるものにアクセスできませんでした。アート、そしてファッションもありませんでした。』
via NYTIMES
「学校以外のすべての存在は音楽を中心に構築された」と彼が言っている通り「トップ・ポップ」のようなテレビ番組、ブロンディやデイヴィッド・ボウイのような当時の人気アーティスト、また地元のレコードショップこそが彼の青春時代であり彼の大半の時間と感性を育んだ場所でもあります。これはあのオフホワイト(OFF WHITE)のヴァージルアブローとも非常に共通している点でもあります。
1989年: ウォルター ヴァン ベイレンドンク(Walter Van Beirendonck) でインターン
ラフ・シモンズは、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンクのインターンとしてヘンクでインダストリアルデザインや家具デザインを学びました。その後ウォルター は、シモンズをマルタン・マルジェラの1990年春のオールホワイトショーに連れて行きます。 そしてロンドン、ミラノ、ニューヨークと並ぶ4大ファッションイベントの一つである、パリのファッションウィークに参加しました。
これはシモンズにとっても生まれてはじめて見るファッションショーだったことからその後の活動に大きなインパクトを与える大きなターニングポイントだったとインタビューでも答えています。
ラフ・シモンズがファッションデザイナーになった理由
「学生時代、私はいつもファッションは少し表面的だけど、すごく派手で魅力的だと思っていましたが、このショーは私にとってファッションに対するすべてを変えました。私はショーを見て思いました。これこそが私がやろうとしていることだと。そしてこのショーこそ私がファッションデザイナーになった理由なのです。」
via businessoffashion
1991年:地元ヘンクの大学を卒業
シモンズはヘンクの大学でインダストリアルや家具デザインを5年間勉強し、1991年に卒業しました。この1991年の卒業までの期間には学生時代によくある青春と失望といった若さゆえの葛藤をラフ・シモンズも感じていたようです。
生涯の友とビジネスパートナーとの出会い
大学在学中、彼はアントワープのWitzli-Poetzliカフェで過ごし、Olivier Rizzo、Willy Vanderperre、およびVeronique Branquinhoと友達になりました。
驚くことに写真家、スタイリスト、デザイナーのこのメンバーを含め当時の仲間の多くは、今日に至るまでラフ・シモンズの最も近い共同制作者・パートナーのままです。
葛藤と青春「私は失望しました」…
私が卒業後にしていたのは家具でした。私は、これらの家具の生産者がいるイタリアに行かなければならないことを知っていました。カッペリーニ、カッシーナ。しかし私はそれが私の手の届かないところにあると感じました。そして私は流れに身をゆだねました。結局、小さなギャラリーに行きつきそこで何かを売ろうとしますが。それでは生きていくことができませんでした。そして私の父は何も言いませんでした…
via NYTIMES
ファッションへの方向転換
今となっては天才デザイナーともてはやされるラフ・シモンズでさえ若き頃は理想と現実にもがき苦しんで色々と模索しながらも葛藤したのがこのインタビューから見て取れます。そして様々なギャラリーの家具デザイナーとして働き始めましたが。
収入的にも自分の理想としても何かが違うと感じ、、この失望と葛藤のはざまで見たものこそが、”マルタン・マルジェラのファッションショー”でありラフ・シモンズが見出した暗闇の中で光る一筋の光明だったのでしょう。すぐに彼はファッションの世界へとのめり込んで行くのです。
1995年:ラフ・シモンズのはじまり
ラフ・シモンズが自身の初となるメンズウェアレーベルを立ち上げ、当時の彼女であるBranquinhoをフィーチャーした8mmフィルムとして初期のメンズウェアコレクションを発表します。
Raf Simons F/W 1995
ラフ・シモンズの最初のコレクションは1995年秋冬です。そしてこのコレクションは彼が通っていた厳格なカトリック学校の制服からインスピレーションを得たものでコレクション ユニフォームにリンクされているのは、シモンズがコレクションでも頻繁に使用している”複製”と”倍数”のアイデアです。
このコレクションは、プロではない「ストリートキャスト」モデル(後で重要になるもう1つのラフ・シモンズの特徴)を起用しショーをしています。今でもこのコレクションが現代的に見えるのはやはりラフ・シモンズが天才デザイナーと言われる所以でしょう。
『ラフ・シモンズ誕生秘話』アントワープ王立美術アカデミーの門を叩く・・・
ラフ・シモンズがブランドとして産声を上げた裏側にはいくつかのエピソードがあります。彼は最初から自身のブランドを立ち上げするまえに、当時多くの有名デザイナーを輩出する名門中の名門であるアントワープ王立美術アカデミーの門を叩くためにアントワープに移ります。
入学を断られる…
ラフ・シモンズ はいくつかの細い黒のスーツと細いノースリーブのシャツをデザインしそれを持って彼は、当時アントワープの王立美術アカデミーのファッション部門の責任者をしていたリンダ・ロッパに会いに行きます。もちろんラフシモンズは、責任者でもあるリンダが自分を彼女が受け持つコースに招待してくれることを願い期待しました。
しかし彼の希望に反してリンダ・ロッパは『 あなたが学ぶことはここにはない 』と入学するよりも彼が独立しファッション、デザインをビジネスとすることを勧めました。そうその時にリンダ・ロッパを感動させたアイテムこそが上の写真にあるラフ・シモンズの初めてのコレクションとなったのです。
そしてこれらのエピソードと展開こそがのちに伝説のブランドとなる『Raf Simons』の始まりとデザイナー『ラフ・シモンズ』の大きなターニングポイントでもあったのです。
1996~1997年:パリ Impasse de Mont-Louisでメンズファッションショー開催
リンダ・ロッパの後押しもあり1995年のA/Wシーズンにミラノの展示会でプレゼンテーション形式で自身のブランド「Raf Simons」のコレクションを発表したデザイナー「ラフシモンズ」は家具作り時代に蓄積した失望と葛藤のフラストレーションを爆発させたかのように怒涛の勢いで3年続けてショーを開催し精力的に活動します。
1997年は、パリのモンルイにあるImpasse de Mont-Louisでメンズファッションショーを開催しました。
Raf Simons A/W 96/97 ‘We Only Come Out At Night’ コレクション Part 1
Raf Simons A/W 96/97 ‘We Only Come Out At Night’ コレクション Part2
Raf Simons A/W 96/97 ‘We Only Come Out At Night’ コレクション 画像ギャラリー
The Smashing Pumpkins – We only come out at night
1997年春夏:「Teenage Summer Camp」コレクション開催
How to Talk to Your Teen
これはRaf SimonsのS / S 1997コレクションの小さなリーフレットです。90年代の世界中の若者を虜にしたブランド「Raf Simons」と天才デザイナー「ラフ・シモンズ」のデザイン、ファッションなどにおける全ての根幹となるベース、コンセプトがこの1つのリーフレットに凝縮されているような気がします。
創業から3年目。しかも最初のコレクションの1995年は右も左も分からない状態でリンダ・ロッパ先生の後押しというよりも半ば強引に起業させられたような状態ですのでまだ企業理念やコンセプトも手探りだったと思われますのでちょうど3年目の1997年に作られたこのリーフレットこそがクリーンな若きラフ・シモンズが描いたファッション・デザインに対する考えが率直に現れている貴重な資料だと思います。
そしてこの後、怒涛の勢いで当時のティーンエイジャーと呼ばれる若者たちの間で一時代を築いたラフ・シモンズの人気の理由とエッセンスが全てこの1枚に詰まっているような気がします。。。
1997年秋冬:コレクション
97AWショーのサウンドトラックは、スマッシングパンプキンズの「トゥナイト、トゥナイト」。「Tonight、Tonight」はラブソングだと感じている人もいますが、ビリー・コーガンが虐待をうけた子供時代の思い出をオフロードするためにこの曲を書いたとも言われています。ラフ・シモンズは後に彼のSS11 15周年記念ショーとAW12ジルサンダーウィメンズショーのためにこの曲を使いました。
1998年春:”ブラックパーム:Black Palms”コレクション
1998年春は、ラフ・シモンズの6回目のコレクション、そして2回目のランウェイショーでした。3年間で彼はパリにおいてベルギー出身の天才メンズウェアデザイナーとしての地位を確立しました。「ブラックパームス」と題されたこのコレクションは、パリのバスティーユ地区の駐車ガレージで、Lords of Acid、Permanent Fatal Error、Reese&Santonio、A Split-Secondなどの音にのせて紹介されました。
モデルはヨーロッパ各地から若者を探すべくラフシモンズはラジオ広告を出しました。そのほとんどはプロのモデルではなく、ほとんどがシモンズ自身のデザイン・ブランドイメージから選ばれました。ショーも、デザイナー自身のアイデアに基づいています。シモンズはかつての時代のワードローブを「黒の衣装」と表現した。長くて細い ランウェイ上の細長い真っ黒な部分にそのイメージがデザインされていました。
ショーのオープニングからゆったりとした黒いズボンの10代のモデルがランウェイを歩き、同僚のベルギー人アーティストFranky Claeysがコレクションのためにデザインしたシルバーの鎖の上にタリスマニックの水晶が。最も有名なのは、アーティストJos Brandsが最初のモデルの背中に描いた”黒いヤシの木”です。別のモデルは、Brandsによって描かれたtrompe l’oeilシャツを着ていました。1つは白に対して無秩序なシンボル、もう1つはセックス・ピストルズの”Never Mind the Bollocks”です。
60以上のルックスで、「ブラックパームス」はラフシモンズの最も長いショーの1つ – そして彼の最も多様な作品の1つです。パンクのグラフィックとヤシの木は今でも沢山のラフシモンズマニアを魅了していますが、ショーではプレッピーパステルピンクのVネック、虹のヘビ革のプリント、そして膝丈のジーンズカットオフが見られました。今までのところ、これまでにラフシモンズのランウェイショーに登場したデニムはたった2回しかなく非常に貴重です。
”Black Palms”コレクション動画一覧
1998年:V Magazineの創刊号とRobbie Sneldersとミッキーマウス
Rizzo、Vanderperre、シモンズが共同でV Magazineの創刊号としてRobbie Sneldersの写真を撮りました。ピーター・フィリップスが”ラフ・シモンズ”のコートを着て顔にミッキーマウスをペイントしたスネルダーの写真が、雑誌の表紙になり、ブランド『Raf Simons』としても広く知られるようになりました。
「それは公表されることを意図したものではなかったが、それから突然それは至る所にあった」とスネルダーは言いました。
via anothermag.com
1999年春: “キネティックユース:Kinetic Youth”
パリのCitédes Sciences et de l’Industrieの外、巨大な鏡のようなボールの前で行われたラフ・シモンズのSS99「Kinetic Youth」は、建築と若かりし頃のスポーツからインスピレーション・ヒントを得たものといわれています。ショーのサウンドトラックは、Pink Floydの「Another Brick in the Wall」でフィニッシュする前のBowieの曲(「Space Oddity」、「Life on Mars」、「Heroes」)のメドレーでした。バギーハウスカラーとポロネックで野外のランウェイでした。
1999年秋冬:”Disorder-Incubation-Isolation”コレクション
1999年春のコレクションより以降ラフ・シモンズの初期を代表するパンクで無秩序なアイテムは大きく様変わりしました。これについてラフシモンズは「私は非常に強く直線的な服を仕立てることに夢中になっています。」とInternational Herald TribuneのSuzy Menkesにインタビューで語りました。
Simonsの考えは、構造化されたなめらかな衣服に変えることでした。ショーの最初の章では、時折幾何学的またはバウハウス風のグラフィックで、スーツやシャツの要素を探求した17の白黒のルックスを通して当時の概念を打ち破るデザインを用意しました。そして、デヴィッド・ボウイの「Life on Mars?」の音にのせてモデルが登場しショーがスタートしました。
1999年:レザーハウスRuffo Researchでガールフレンドと一緒に働く
1995年、ブランド「Raf Simons」が誕生した年からお付き合いしてる当時のガールフレンドであったベルギー人デザイナー、ヴェロニク ブランキーノ(Veronique Branquinho)と 一緒にレザーハウスのRuffo Researchで1999年の春から夏、そして1999年から2000年の秋から冬に向けてRuffo Researchのメンズウェアの衣装をデザインしました。
1999年: 写真集 ”Isolated Heroes ”をリリース
ラフ・シモンズとコラボしたことで一躍有名になったフォトグラファーのDavid Simsと一緒に制作した写真集をリリース。当時このように写真を使い、アート×ファッション×芸術という観点での魅せ方、マーケティングをするデザイナーはほとんどおらずユーザーだけではなくファッション業界、関係者からも非常に注目された。
参照:Raf Simons Isolated Heroes by Raf Simons and David Sims
日本人フォトグラファーもラフ・シモンズコレクションで活躍していた!?
ちなみに1997春夏など初期のラフ・シモンズで日本人フォトグラファーが活躍していたこともご紹介しておきたい。
teenage summercamp コレクションでは多数のアートな写真を残しているshizumi yoneda氏。Tumblrのアカウントが削除されており現在の具体的な活動は不明ですが。ウェブサイトのお写真のクレジットにお名前があることから現在は日本で活動されているものと思われます。
前編まとめ
ラフ・シモンズの誕生から11のターニングポイントは如何でしたでしょうか?
一時代を築く成功者には運と人が集う!
あのマルタン・マルジェラと同郷で彼のファッションショーに触発され失望に明け暮れていたフラストレーションを爆発させファッションに傾倒して行ったターニングポイントなどはファッションデザイナーになるべくしてなったとしか思えないタイミングの良さ。
また彼らの母親同士が同じ村の出身であること。ラフ・シモンズの大学時代の親友たちが今もビジネスパートナーであることなど成功者には人と運を引き寄せると言いますが。これだけそれを地で行く運に恵まれている人もなかなかいません。
運を結果に変える実力とセンス
アントワープ王立美術アカデミーのファッション部門の責任者をしていたリンダ・ロッパの受け持つコースに入るべくいくつかのアイテムを持って行くとここで学ぶ必要はないからすぐにビジネスを始めるよう勧められるなど既にこの時にはずば抜けたファッション、デザインセンスを持っていたようです。
そして一年足らずで初のコレクションをこのオーディションアイテムで開催して大成功します。
ラフ・シモンズと音楽
ラフ・シモンズは映画館、ブティック、博物館などファッションデザイナーになる為に必要なインスピレーションとなるような文化的な娯楽がないかなりの田舎町で生まれますが。
逆に何もないことが功を奏し、音楽に没頭して10代の青春時代を過ごしそこで培った音楽×アート×ファッションこそが結果として彼が創るデザインの細部にそれらが宿り伝説となったのです。
この音楽×アート×ファッションという点においてはオフホワイト(OFF WHITE)のヴァージルアブローに通ずるものがありやはりファッション業界においてトップをひた走る天才デザイナーはトレンドだけではなく多彩で多様な感性を持ち合わせていなければならないのかも知れません。
後編では1999年から今までのコレクションを中心にご紹介致します!!