”#Chrome Hearts×カールラガーフェルド”
クロムハーツ創業以来から怒涛の勢いで名を広げ、今やその名を知らない人はいないほどのカリスマブランドとなりました。もともとレザーのブランドだったクロムハーツもシルバーアクセサリーが有名になり、【キングオブシルバー】と言われています。
【キングオブシルバー】の呼び名にふさわしいモチーフの造形美、リングやネックレス、ピアスにブレスレットをはじめ、クロムハーツの造形美やたくさんのこだわりは各国の著名人も虜になっています。
今年の2月に死没という悲しいニュースも流れ、世界のファッショニスタに惜しまれながら他界した【モードの皇帝】と言われ、シャネルの再建の最大の功労者でもあるカールラガーフェルドもクロムハーツのファンなのです。今回は彼について紹介しようと思います。
カールラガーフェルドのプロフィール
本名 | カール・オットー・ラガーフェルド |
生年月日 | 1933年9月10日 |
死没 | 2019年2月19日(85歳没) |
出身地 | ドイツ ハンブルク |
国籍 | ドイツ |
住居 | フランス パリ近郊ヌイイ=シュル=セーヌ |
know for | デザイナー 写真家 |
主なキャリア | シャネル(1983‐2019) フェンディ(1965‐2019) クロエ(1963‐1978、1992‐1997) |
公式サイト | Karl Lagerfeld Official Website |
親 | 父:オットー・ラガーフェルト 母:エリザーベト・バーマン |
今さら聞けない!?”モード界の皇帝”ってどんな人?
「シャネル」や「フェンディ」のデザイナーであり、長年ファッション界を牽引する”モードの皇帝”とも言えるカール・ラガーフェルドの意外と知られていない苦労した過去から、定番スタイルに隠された秘密など、カール・ラガーフェルドにまつわる基本の“き”をおさらいします。
生い立ち
伝記作家のアリシア・ドレークによると、彼は1933年9月10日ドイツ北部のハンブルク・ブランケンゼーゼ地区に無糖練乳の生産、輸入会社であるホーホヴァルト社の経営者である父オットー・ラガーフェルド、下着のセールス会社に勤める母エリザベート・バーマンの間に生まれました。母方の祖母であるカール・バーマンがカトリック系政党の中央党の地元政治家であったことから復古カトリック教会を信仰する家庭で育ちました。
が1933年は彼自身否定しています。世界大戦中の爆撃により出生記録がなくなり実際の年齢はだれにもわからないそうです。
ブランケンゼーゼ地区は、絵本のような可愛いヴィラが並ぶ高級住宅街です。カールは絵を描くのが好きな子供で、美術館の絵を見るのも大好きでした。あるとき美術館で、フランス絵画という魔法に出会います。フランス絵画と言えば、マネ・モネ・ルノアール・ゴーギャンなど輝くような傑作ぞろいです。そこからカールの感性が生まれたのでしょうか。
カールはフランス絵画をきっかけに、フランスの魅力に憑りつかれてしまいました。学校の勉強とは別に、屋根裏部屋にこもってフランス語を勉強するなど、フランスのことで頭がいっぱいでした。
カール・ラガーフェルド
私はフランスのすべてを愛していました。フランスに行きたくてたまりませんでした。私が子供の時にフランス語を学んだのは、それが理由です。
キャリアの始まり
1950年、カールはハンブルクで行われたディオールのショーを見て、フランス行きを実現したくなりました。本当はマンガ家になりたかったけど、ファッションデザイナーの方が生計を立てやすいと考えたそうです。デザイナーで生計を立てるというカールの考えを、家族が応援してくれました。
1950年代の初め、カールの母親は、カールと共にフランスに移住します。パリのファッションデザイナー養成学校「パリ・クチュール組合学校」に、カールを入学させるためです。
17歳になるころにファッションデザイナー養成校「パリ・クチュール組合学校」にてファッションを学びます。この時の同級生に【モードの帝王】イヴ・サンローラン、文化服装学院名誉学院長の小池千枝がいます。
カールと同じくめざましい成長をとげて、在学中からクリスチャン・ディオール(Christian Dior)に認められます。この二人は大人になってからもずっと、喜怒哀楽を共有する友達になりました。カールはハーパーズ・バザーのインタビューで
カール・ラガーフェルド
サン・ローランは20年以上の親友。
と答えています。
1955年には国際羊毛事務局(現在のザ・ウールマーク・カンパニー)の支援するデザインコンテストのコート部門で優勝し、ピエール・バルマンのアシスタントとして雇われました。その時にドレス部門で優勝したのはサンローランだったと言います。その後、3年間バルマンの下で働きデザイン室長になりましたが、1958年、ジャン・パトゥの下に移籍して5年間にわたり年2回60点ほど発表されるオートクチュールのデザインを行いました。
カール・ラガーフェルド
生地や技術的なことも主にパトゥのメゾンで学んだ
と語っています。
苦悩の連続
1958年の7月にローランド・カールの名を使った最初のコレクションが行われますが、コレクションの反応は決して良いものではありませんでした。
看板(press booed)を集めたようなコレクション
アメリカのファッションジャーナリストであるキャリー・ドノバン
会社の新しいデザイナー 25歳のローランド・カールのコレクションは引き延ばされた形で昨年の袋形のフォルムの流れを無視したものである
UPI通信社
などの評価ばかりでした。
1960年の春のシーズンにデザインしたスカートはその年のパリで一番短く、当時は斬新なデザインでしたが
既製服(ready-to-wear)としては十分良く売れるだろうが、しかしオートクチュールではない
キャリー・ドノバン
と切り捨てられ、反応は良くありませんでした。それでも1960年代も後半の頃になると、徐々にカールの発表するコレクションの評価も悪くないものになってきていたが、いまひとつという状況が続きます。
カール・ラガーフェルド
ウンザリして、仕事を辞めて、学校に戻ろうと思ったが上手くいかなかった。だからそれから2年間を主にビーチで過ごした。そこで人生というものを学んだと思う。
と語っています。
苦悩から解放の狼煙
オートクチュールのあり方に疑問を感じ、イタリアに渡ってフィレンツェで建築や絵画、彫刻などを学びます。イタリアからパリに戻ってきた1963年、カールはティツィアーニというブランドを立ち上げた年にアメリカ・テキサス州出身のエヴァン・リチャ―ズによって、イタリア・ローマで創業された店でデザインの仕事を始めました。そこではまずオートクチュールを見直し、さらに既製服にも製造が拡大されました。
1963年、カールとエヴァンは共同でデザインを行い最初のコレクションを仕上げた。このブランドの顧客にはエリザベス・テイラーやジーナ・ロロブリジーダ,ドリス・デュークといった著名人がいました。結局カールはこのブランドのデザインを1969年まで行っています。
クロエからフェンディへ
1964年には、フリーランスのデザイナーとして「クロエ」と契約します。最初のうちはシーズンごとに数点のデザインをするだけでしたが、徐々に増えていき、遂にはコレクション全部をデザインするまでになりました。このクロエのデザイナーは1978年まで続き、1992年には再びデザイナーに復帰し、1997年までの5年間勤めあげました。
1965年には毛皮で有名なイタリアのブランド「フェンディ」と契約し、デザインを始めます。それまでの伝統的な形の毛皮のコートを一新し、ミリタリーなど新鮮なスタイルを提案しブランドの刷新を図り、現在まで使われるフェンディのFを2つ組み合わせたロゴもデザインした(その意味は”Fun Fur”であるらしいです)。
フェンディとの契約によるデザイン職は50年以上も続きます。こうしたフリーランスとしてデザイン職に携わるやり方は、最初ではないにしろ成功例として以降一般化していきました。
多くの揶揄を黙らせる才覚の発覚
1970年には、その前年の11月に創業者を亡くしたローマのオートクチュール店のためにデザインを始め「ポタポタと落ち感のあるエレガンス」と評され、1970年代には、舞台衣装のデザインを行っていた時期もあり、中にはミラノのスカラ座のためのデザインなど多岐にわたるデザインもこなしていました。
1980年代には様々な会社と契約を結んでデザインを行っていて、伊勢丹と契約してデザインをし、メンズ、ウィメンズで30点ほどの製品を発表したり、他にもアメリカの会社ではランジェリーのデザインや、靴、セーターのデザインを行っています。
1982年シャネルと契約し、低迷ぎみであったブランドを復活させました。2004年、スウェーデンのファストファッションメーカーH&Mとのコラボを発表します。高級ブランドのデザイナーとファストファッションのコラボレーションはそれ以前にはほとんど例がありませんでした。しかし、それ以降、H&Mは毎年著名なデザイナー、メゾンとのコラボレーションを行っています。
シャネルの復活劇
今でもそう簡単なものではありませんが、老舗メゾン再興という事例はそれ以前には一般的ではなかった当時、カール・ラガーフェルドはデザイナーとしてシャネルを再興させました。
創業者「ココ・シャネル」が1971年に亡くなって以降ブランドとしてのシャネルは低迷していました。「シャネルは墓に戻る」とまで言われ、経営状態を立て直すためにカールにデザイナー職のオファーが届きました。その当時、低迷したブランドを再興するという考えは一般的ではなく、カールは多くの友人からその契約を結ぶべきではないと忠告されたそうです。
結局シャネルからの2度目のラブコールをうけたカールは、1983年のオートクチュール、1984年からはプレタポルテ(既製服)とデザインを開始します。結果としてコレクションは高い評価を得て、なおかつ販売・話題性も回復しました。
カール・ラガーフェルド
ゲーテの言葉のように、シャネルのスタイルを進化させたかったのです。過去を知り、その積み重ねの上に、より良い未来を作ろうと
カールがシャネルを復活させたことは、他のブランドにも影響を与えました。形や素材・デザインを新しくしても、ブランドの品格やスピリットは継承できると判ったからです。
こうしたシャネルとカールの関係は、彼が亡くなるときまであり、後任には長年カールの右腕でとして働いてきたシャネルのクリエイティブ・スタジオ・ディレクター「ヴィルジニー・ヴィアール」が即座に就任しました。
モードの皇帝の名言
カールラガーフェルド
私は飽き性なんだ。同じテーマを何度も繰り返すなんて、悪夢だね
読書好きで観察眼に長け、見たものや聞いたもの、読んだものはすべて、独自のフィルターを通じて強力なファッションイメージになりました。彼の書斎は写真やアート関連の書物で埋め尽くされ、蔵書数は、なんと30万冊以上にも上るそうです。
カールラガーフェルド
ココシャネルは、かつて『自分が着たいものしかデザインしない』と言ったが、私も、自分が眠りたいと思える部屋しかつくらない
自身がデザインを手がけたカナダ・トロントのホテル、The Art Shoppe Condosを訪れたときにコンセプトを問われたときの答えです。シャネルへのリスペクトが伝わってきます。
カールラガーフェルド
ミューズがいなければ、作品は曖昧で抽象的なものとなり、生彩を失ってしまう。彼女たちは、私のクリエーターとしての表現を助けてくれるんだ
ミューズとして愛した女性たち”イネス・ド・ラ・フレサンジュ”、”アンナ・ピアッジ”、”アマンダ・ハーレック”、”リアーナ”、”クリステン・スチュワート”、”リリー=ローズ・デップ”など、皆が独自の強さと美しさを備えていました。
彼女たちに特定の共通点はないですが、それぞれがカールの創造活動になくてはならない存在だったと彼は2014年、あるアートメディアにこう語っている。
カールラガーフェルドのファッション
彼のポニーテールにサングラスという独自のスタイルを確立したのは、1970年代のことです。スタイリング剤は好まないし、髪に癖があるため、まとめたほうが楽だそうです。
「カールが好きなブランドはディオール」という説がありますが、必須ではないようです。イタリア製のスーツ、日本のデザイナーズブランド、ヒッピールックなど、試したファッションは数知れずで、16歳からシャツをオーダーしているメーカーがあり、累計300着以上を注文したそうです。
自身が大好きだと公言しているクロムハーツについては、
カールラガーフェルド
男が身に着けて許されるジュエリーはクロムハーツくらいなものだ
と言い、全てのリングを所有していると言われています。
また、2000年の秋、エディ・スリマンが手掛けた「ディオールオム」のスーツを見て衝撃を受けたカールは、「どうしてもディオールオムのスーツが着たい」と、13ヶ月で40kg以上の減量に成功したというのも有名な話です。その後、写真家でもあるカールは、クリス・ヴァン・アッシュに引き継がれたディオールオムのキャンペーン撮影を引き受けています。
2014年には、バービー人形とのコラボレーション作品「バービーラガーフェルド」が999体限定で発売され 、黒いサングラスに黒いジャケット、白くて襟の高いシャツという、いかにもカールらしいコーディネートが特徴的なバービーとなっていました。
キングオブシルバーとモードの皇帝の関係
カールは貴金属については、ゴールドやプラチナよりも、シルバーが好みだそうです。クロムハーツが大好きで、「男性が身につけて良いジュエリーはクロムハーツくらい」と、絶賛し愛用していました。「クロムハーツは全部持ってる」という豪語が有名です。
カールラガーフェルドのクロムハーツへのこだわりは、ファッションデザイナーとして共演したローリーリンスタークと出会い、彼女の革のズボンに身をかがめて、「karl」と書かれたタータン文字を彼女に見せたときに始まりました。
大きな襟のシャツにタイ。その上からクロムハーツのロングネックレスをあわせるのが、彼の定番スタイルですがかなりかっこいいです。推定ですが70cmくらいのチェーンにクリップをトップとして合わせていますね。なんとも独創的な着こなしで、いわゆるジャラ付けというものです。彼がこのジャラ付けという言葉を作ったのではないでしょうか。
これだけのオリジナリティを築きあげるのは並大抵の事ではございませんが、”自分らしさ”を表現できる着こなしはさすがと脱帽モノです。