”History of Maison Margela”
「マルタン マルジェラ(Martin Margiela)」の誕生から1999年まではいかがでしたか?
メゾン・マルタン・マルジェラ”(Maison Martin Margiela)の魅力の真髄は、そのつかみどころのなさにあるのだと思います。だからこそこのレーベルに関連するニュースには世界中の誰もが飛びつくのです。 「姿が見えないデザイナー」とまで称されたことがある「マルタン・マルジェラ」、ファッション界において多大なる影響力を放ち続ける「Maison Martin Margiela」。その2000年から現在までの軌跡、そしてその裏側を深く探ります。
マルタンマルジェラについて
名前 | マルタン・マルジェラ(Martin Margiela) |
生年月日 | 1957年4月9日 |
出身 | ベルギーのヘンク(ラフシモンズとは同郷) |
学歴 | アントウェルペン王立芸術学院 |
設立組織 | Maison Margiela |
@maisonmargiela | |
Instagram投稿ハッシュタグ | #maisonmargiela #martinmargiela #マルタンマルジェラ |
公式サイト | メゾン マルジェラ 公式ストア |
意外な友人 | カニエ・ウエスト(Kanye west) |
2000年:東京初出店
「メゾン・マルタン・マルジェラ”(Maison Martin Margiela)」初の店舗が2000年に東京で展開されて以来、東京をはじめとして日本各地に店舗展開されていいきます。東京にある主な店舗としては、恵比寿や表参道などに旗艦店があるほか、「コムデギャルソン」の創業者「川久保玲」が手掛けるDover Street Market Ginza(ドーバーストリートマーケットギンザ)、伊勢丹新宿店、GINZA SIX(ギンザシックス)、銀座三越、などにも店舗があります。また、ユナイテッドアローズ、ドゥーズィエムクラス、バーニーズニューヨーク、エディションなどの多くのセレクトショップの一部店舗で、MAISON MARGIELA(メゾン マルジェラ)の商品を扱っています。東京以外では、仙台や福岡、広島、大分、大阪、名古屋、金沢など、日本各地に10店舗以上の直営店があったり、デパート内の店舗や一部商品を扱うセレクトショップもたくさんあります。
2000Spring:”オーバーサイズ”のはじまり
トレンチコート、メンズシャツ、ボンバージャケット、スリップドレスのようなワードローブのステープルにあふれたプロポーションが148、150、または200パーセント拡大されたコレクションでした。 2000年代に突入した最初のコレクションでマルジェラはすべての服をXXXLに拡大し、これが今の流行りでもある”オーバーサイズ”の出発点となったと思います。
ちなみにXXXLはイタリアサイズで言うサイズ78相当らしいです(笑)デカすぎます(笑) しかし、マルジェラがこのコレクションで焦点を当てたのはサイジングだけではありませんでした。 慎重に配置された価格シールと電子セキュリティタグが、ファッションのマーケティングと販売に対してのマルジェラから業界に対してのアンチテーゼだったのかも知れません。
コレクションギャラリー
2000Autumn
「La mode du XXL」 というテーマ2000年の秋から翌年の春にかけてマルジェラが特に固執したものです。 が、ショー後半では比較的タイトめなファッションもありました。個人的にはLook1が好きな感じではあります(笑)
2001年:ラディカルファッション展
マルタンマルジェラは2001年にロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館で「ラディカルファッション」展を行いました。
2001Spring
このコレクションでモデルは、ルーブル美術館の花びらが散らばった床の周りを歩きました。マルジェラは1991年に靴下を縫い合わせたセーターを作りましたが、今回のショーでも靴下を使った服を作りました。さらにこれは2015年のサイモン・ポルト・ジャックムスの秋のコレクションの影響を与えたかもしれないコレクションにもなります。
2002年:店舗激増のきっかけ
OTBというレンツォ・ロッソのグループ企業の出資、製造、店舗開発などまで支援を受けるようになります。ここからグローバルで店舗数が増え、メゾンは2002年以降の6年で約5倍に成長したといいます。しかしこの契約がのちに大きな歪みを生んでしまったのかもしれません。。。あくまでも噂ですが。。。
2002Spring
2002Autumn
2003年: Hermesのクリエイティブディレクター退任
マルタン・マルジェラは2003年に エルメスのクリエイティブディレクターを退任しました。1997年から退任の間にエルメスのプレタポルテを12コレクション発表しました。マルタン・マルジェラが退任した後にエルメスのクリエイティブディレクターを引き継いだのはなんと過去にデザインアシスタントとして師事を仰いだジャン=ポール・ゴルチエだったのです。このジャン=ポール・ゴルチエとマルタン・マルジェラの2回目の出逢いは運命だったのでしょうか。。。
2003Autumn
2004年:新本部の引っ越し
2004年12月に、メゾンマルタンマルジェラは、パリの11区にある18世紀の修道院に新本部を引っ越しました。本部の家具と内装は白く塗られ、古風な外観になっています。白い環境に加えて、従業員全員が伝統的な「ブラウスブランシュ」、白いコートを着用しているそうです。
2006S/S
ショーモデルの女性たちは、奇妙なファッションで建築現場の中でポーズをとっています。一人一人が自分のトロッコに乗せられ、黒子によって電車の線路に沿ってゆっくりと押されました。 マルタン・マルジェラの頭の中で衣服の構造を「溶かす」ことについての考えとして始まったコレクションでした。 そして、テーマを強調するために、融解の過程をイメージしたアイスキューブで作られたネックレスとブレスレットという特別なジュエリーがありました。
2006A/W
このシーズンでは家庭用の家具が派生した服のショーを発表しました。ジャケットやズボン、スカート、ハイヒールのサンダル、そしてベルトにまで変身を遂げたのはソファー 、 70年代の革張りの椅子、敷物、カーテン、シートベルト付きのカーシートのクレトン製スリップカバーでした。
2007S/S
マルジェラは今シーズンのコンセプトを「1970年代のサンフランシスコ」と主張しました。ゴールデンゲートの夕焼けのイメージがプリントされたTシャツ、裏がスタッドで覆われているジャケット、2枚のパッチワークのズボンが目立ちました。
2007A/W
マルジェラはファッションの意識を高め、忘れ去られた人々、無視された人々、疲れ果てた人々に新たな命を吹き込みました。このコレクション全体を表現したのは、薄手のコットンシャツにLurex社の糸、タキシードのズボンの上にパイピング、そしてきらびやかなアクセサリーのゴールドとシルバーのディテール でした。このコレクションはファッション業界でのマルジェラの地位を強調するのに役立ちました。
例えば、過去の作品を再構築する彼のレプリカプロジェクトは、今シーズンモスクワからのビーバーコート(1990)、オレゴン州ポートランドからのツイードトレンチコート(1969)、そしてデトロイトからの建設用ブーツ(90年代半ば)を含み、このコレクションのメインとなるような存在感を放っていました!
2008年:アーカイブ展、ジュエリーコレクション
メゾン・マルタン マルジェラとしての20周年(1989年春夏-2009年春夏)のアーカイブ展をトウキョウ店で開催しました。
また、1924年設立のイタリアのジュエリーブランド「ダミアーニ」とのコラボレーションにて、ファインジュエリーコレクションを発表しました。その時のコンセプトは「XXLサイズ」でした。
2008S/S
今回はショールームでのプレゼンテーションを選びました。5人の写真家にこのシーズンの解釈を依頼し、ショールームを白壁のギャラリースペースとして再構成し展示会を開催しました。
2008A/W
このコレクションは攻撃的でした。ベルト、リング、ゴム製のボディピースのバックルとしてさまざまな形で現れた有刺鉄線のモチーフから制作されました。プリントはチェーンリンクフェンスをイメージされています。アクセサリー類は、トラックによって押しつぶされたように見えた宝石を使用しました。 そして100足限定で生産されたブーツは頭蓋骨のモチーフでスプレー塗装されました。パンツのワックス仕上げでさえ、ある種の暴力を示唆していたのでしょうか。。。
2009年:デザインチームの存在公表
2009年10月、マルタン・マルジェラは「Maison Martin Margiela」のクリエイティブディレクターを辞任し たことが発表されました。 その理由についてさまざまな推測や噂が出回りました 噂によれば、「マルジェラは新しいディーゼル所有の商業的動機に反対し、メゾンはその真正性と独占権を犠牲にして世界的に認知されたブランドになることに賛成している」が有力とのことでしたが本当のことはだれにもわからないのです。
そしてマルジェラに代わる人が誰ができるのかという問題が話題になり、「ラフシモンズ」、「ハイダーアッカーマン」が有力候補だとこれまたうわさが流れました。しかし同年12月、 Maison Martin Margielaには後任者が選任されないことが発表されました。マルジェラが去った後も匿名のデザインチームがデザインを続けましたが当時の最高経営責任者(CEO)のジョバンニ・パンゲッティは「前衛的で挑発的であり続けたいが、新しいクリエイティブディレクターはいない。挑戦しています。間違いを犯すことになるでしょうが、最も重要なことはそこから学ぶことです」 と言いました。
やはり天才デザイナーのマルタン・マルジェラのセンスは近くで一緒にデザインしていたチームのだれも追随を許さないもので彼が去った後、マルジェラの代わりを務めることができるデザイナーはいなかったようです。。。
2009S/S
2010A/W
2011S/S
2011A/W
過去数シーズンにわたり行ってきたプレゼンテーションのシーズンの後、メゾンマルタンマルジェラは、メンズコレクションのためのショーを行いました。 スーツはピンストライプのウールと一緒にコードとベルベットでまとめられ、そしてタートルネックのセーターを着ていました。アウターウェア、特にギャバジントレンチとフェルトのグレーのウール狩猟用ジャケットの要素を組み合わせたコートなどの混合素材で作られた作品が特に際立っていました。
2012年:H&Mとのコラボレーション
11月15日に発売されたH&Mコラボ。1992年の秋のシーズンに触発されたというように1992年の秋シーズンを彷彿とさせるラインナップでした。ちなみに僕も終電から並びました(笑)
2012S/S
2012A/W
2013年:カニエ・ウエストのツアー衣装を手掛ける!
カニエ・ウエスト氏、話題があるところにこの人ありというぐらい話題作りが上手い?というよりもどこにでも貪欲にアプローチするあたりがアメリカンドリームを手に入れるにはそれぐらいのアグレッシブさがなければいけないという事を体現しているスーパースターの一人である彼。カニエ軍団のメンツも豪華で一番弟子には世界のルイ・ヴィトンのスーパーデザイナーであり、オフホワイト(OFF WHITE)のデザイナー:ヴァージルアブロー。奥さんは世界一のインスタ女王のキム・カーダシアン。挙げればキリがありませんが。彼には人を惹きつけ尚且つ魅了する術と天性があるのでしょう。
つい先日ご紹介したイケアとオフホワイト(OFF WHITE)のコラボではヴァージルアブローがテレアポしてる陰で真っ先にデザイン画を持ってイケアに猛アプローチして見事に無視、、スルーされる( ;∀;)という涙ぐましい努力と攻めの姿勢を崩さないカニエ氏。
“We didn’t pay attention to what is being said about him in the press, we just focused on what could be done with him,” Maison Martin Margiela told us. “We have wanted to work with Kanye West for a very long time, ever since he became a close friend of the Maison; supporting us a lot and coming to our shows. We like his music and the vision he had for the tour.”
via vogue.co.uk
「私たちは報道の中で彼について言われていることに注意を払わなかった、我々はただ彼と一緒にできることに焦点を合わせた」とMaison Martin Margielaは私たちに言った。
「彼がメゾンの親友になってからずっと、カニエウェストと一緒に仕事をしたいと思っていました。私たちをたくさんサポートし、ショーにも参加しています。私たちは彼の音楽とツアーに対するビジョンを気に入っています。」
そんなカニエ・ウエストはマルタンマルジェラともコラボしており2013年のツアー衣装では全面的にマルジェラのチームが制作しておりこの時のインタビューでもマルジェラはカニエ・ウエストのことを”親友”と言っており。表に出ないマルタンマルジェラとは極端に対照的に見える彼らですが。磁石のように対極過ぎてひかれあうものがあるのでしょうか。前のシーズンのコレクションでも彼らはともに仕事をしています。
2013S/S
2013A/W
2014年:ジョンガリアーノがクリエイティブディレクターに
同年の10月にジョンガリアーノが「メゾン マルタン マルジェラ」のクリエイティブディレクターになりました。1985年に自身のブランド、ジョン ガリアーノ(John Galliano)をスタートし、1995年7月にジバンシィ(Givenchy’s)の1996年10月にはディオール(Dior)のクリエイティブ・ディレクターに就任しました。メゾン マルタン マルジェラの抱えるスタッフ インターナショナルを傘下にもつ、ホールディングカンパニーOTBのプレジデント、レンツォ・ロッソは、次のようにコメントしました。
「マルジェラに新たなカリスマを迎える準備が整いました。ジョン・ガリアーノは最高の、疑う余地のない才能の持ち主です。唯一無二で類稀なるメゾンのクチュリエは、世界のファッションに常に挑み、革新してきました。私は、彼にしか創造できない「ファッション・ドリーム」のため、彼が再びこの世界に戻ってきたことを嬉しく思います。ここを新たなホームだと思ってほしいです。」と。
このジョンガリアーノのクリエイティブディレクター就任のニュースは各国のマルジェラ好きやバイヤーやファッションジャーナリストを驚きと衝撃を与えたと思います。
2014S/S
2014A/W
2015年:ブランド名が「Maison Margela」に変更
この年の1月14日に「メゾン マルタン マルジェラ」 が、創業者のファーストネームである「マルタン」をブランド名から外し、新たに「メゾン マルジェラ」に変更すると発表しました。 名称変更は、ジョンガリアーノによる初の「アーティザナル」コレクション発表と重なったが、担当者はブランド名変更は「ブランド全体に関することであり、アーティザナル・コレクションだけに適用されるものではない」と語りました。
2015S/S
2015A/W
2016S/S
2016A/W
2017S/S
2018A/W
2019S/S
映画「We Margiela」について
あまりここでネタバレみたいなことはしたくないので気になる方は直接見に行ってみてください。見に行ってください。と言ったんですけど正直な話、マルジェラあんまり知らないって人や今日昨日マルジェラのこと知ったとかこの記事の前編後編見て気になったとかだったらあまり楽しめないと思います。
誰もが楽しめる映画にはなってないのかなって印象を受けました(笑)例えば、某クモ男の映画ってクモ男のこと知らなかっても楽しめる映画だとおもうんです。けどこの映画はまた一味違うというかみんながみんな楽しむための映画じゃないのかなって感じです(笑)この時のシーズンのコレクションがどうだった。アーティザナルはこうだ。とかっていう話は少ししかなかったです。
前編でも言ったと思うんですけど題名にもなってる「We」が重要なんです。記者会見でもFAXで「私たち」って答え方するんですけどその意味だったりとか。。。あとはジェニーメイデンスとの話がメインなのかなって思います。謎に包まれたマルジェラを周りにいた人視点で迫れるって感じです。僕的には面白かったですし、酷評してるってわけじゃないんですけど。。。難しいですね(笑)
総括
さて、マルジェラの誕生から2019年の最新まではどうでしたか?皆さんもマルジェラの世界に引き込まれたのではないでしょうか。彼の魅力は言葉で言い表すことができないものだと思います。その魅力を感じて「ラフシモンズ」はデザイナーの道に進みましたし、彼の周りの人間も彼の魅力の虜になったのだと思います。
そして、虜になった人間は僕を含めてこの世界中に存在しています。ラフシモンズもそうですが天才といわれる人は人を巻き込む不思議な力を持っているのでしょうね。
僕は、マルジェラの帰りを待ちたいと思っています。
※ここからは個人的な感想になります※
今、流行の中でマルジェラの店頭にはダッドシューズが並んでいて、正直「んー、、、」って感じになります。マルジェラの魅力として僕自身マルジェラの好きだったところは「時代に捉われない服作り」って部分だったんです。僕が好きだったマルジェラはもう終わりなのかっていう悲しい気持ちにもなります。
それは逆にマルタン・マルジェラが作るブランド「メゾン マルジェラ」が好きだったということでもあります。そんな方も少なからずいらっしゃると思います。映画を見て改めてそう思いました。別に今の「メゾン マルジェラ」が嫌いってわけではないです。
劇中で「自分がブスだと思ってる子もマルジェラを着ると自信を持てた。そういう人を何百人も救ってきた」ってセリフがあって真理をつかれた気がしました。「ファッションは自己満足、自分のための自分だけの鎧」ってことなんじゃないかと思います。マルジェラが伝えたかったことはこういうことなんだなっていう僕の個人的な解釈ですが。。。
おまけ
「ANDAMファッションアワード」初代グランプリ受賞者のマルタン・マルジェラが2019年度の審査を遠隔で行うことが発表されました。これは何かの前触れなのかなって思ったのですが、、、あまり大きな声では言えませんが近い将来、マルジェラが表舞台に戻ってくるとのうわさが。。。