” History of Maison Margiela ”
マルタン・マルジェラに関してですと多すぎてどこから話すべきなのかわからないですね(笑)デザインのコンセプトとしては「反モード(アンチモード)」を掲げ、流行に反したボディーラインのファッションなどを提案しています。特に軍服をアレンジした作品に代表されるような「ポぺリズム」と呼ばれるスタイルも有名で知られているのではないでしょうか。 またそのコンセプトのデザインは「ファッション界に最も影響を与えたメゾン」として称えられあのラフシモンズの歴史にも関わってきます。
ブランド設立時はコレクション等に顔を出していたのですが、だんだんとショーの後も舞台裏に残るようになりました。彼の顔は、公には知られていません。彼の経歴を通して、1997年にマルシオ・マデイラという写真家によって撮られた唯一の写真が存在しますが、公式にはマルジェラ本人だと確認されていません。 それ以降は新しい写真が出てこないので、重病説や死亡説が流れるほどです。 彼のキャリアを通して、マルジェラは一度もインタビューをしたことがなく、 メディアへの連絡はすべてFAXで行い、回答は「私は」ではなく「私たちは」といった言い回しを使い、創作活動が複数名で行われていることを強調しています。自分一人ではなく、グループワークにこだわっているマルタン・マルジェラらしい表現の仕方だといえるでしょう。
ちなみに、【ファッション・ナウ−「i-D」が選ぶ世界で最も重要なデザイナー150人】の一人にマルタン・マルジェラも選ばれているのですが、彼の人物写真はなく、空席の椅子の写真が写っています。それほどデザイナー非公開を徹底したマルタン・マルジェラ。彼の歴史に迫っていきます。また後編では表舞台にでないマルタン・マルジェラと非対称的で意外な親友のカニエ・ウエストとの関係についてもご紹介していきます。
マルタンマルジェラについて
名前 | マルタン・マルジェラ(Martin Margiela) |
生年月日 | 1957年4月9日 |
出身 | ベルギーのヘンク(ラフシモンズとは同郷) |
学歴 | アントウェルペン王立芸術学院 |
設立組織 | Maison Margiela |
@maisonmargiela | |
Instagram投稿ハッシュタグ | #maisonmargiela #martinmargiela #マルタンマルジェラ |
公式サイト | メゾン マルジェラ 公式ストア |
意外な友人 | カニエ・ウエスト(Kanye west) |
1957年4月9日:マルタン・マルジェラ誕生
マルタン・マルジェラは1959年、ベルギーのニーベルト郊外のヘンクという町で生まれました。この町は工業都市ながら自然や歴史、芸術の盛んな人口約6万人ほどの小さな町です。盛んな芸術や歴史がマルタン・マルジェラの創造の源になっているのでしょう。
そして、今メンズウエア界でトップクラスの影響力のラフシモンズもこの町の出身なのは知らない方も多いと思います。
1977年:アントワープ王立芸術アカデミー入学
1977年にマルタン・マルジェラはアントワープ王立芸術アカデミーに入学しました。
彼は同校出身のアバンギャルドなファッション集団「アントワープSIX」のメンバー によく間違えられます。が本来は 「ドリスヴァンノッテン」「アンドゥムルメステール」「ダーク・ヴァンセーヌ」「ダーク・ビッケンバーグ」「ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク」「マリナ・イー」 の6名です。
マルタン・マルジェラをはじめとし、「アントワープSIX」を含むそのころの年代のベルギーのデザイナーは日本の「コムデギャルソン」のデザイナーの川久保玲をはじめとする前衛的なデザイナーが提案する分解的なファッションに触発されており間違えられることもあると思います。
しかし「アントワープSIX」は1980年~1981年間の卒業した新世代のファッションデザイナーのことを言い、マルタン・マルジェラはその前年の1989年に卒業しています。
卒業以降のマルタン・マルジェラ
卒業以降、彼はフリーランスのファッションデザイナーとしてイタリア・ミラノに渡ります。
そのころから彼は意図的にライニングや縫い目、衣服構造を明らかにする脱構築スタイルを提案しています。
そして1983年にゴールデンスプール賞を獲得します。
『たとえば、1900年代の改革期、労働者の制服、初期の女剣士たちのスタイル。個々の想像上の世界を組み合わせながら、”全体”を創造していくのが、私は好きですね 』
マルタン・マルジェラ
これはゴールデンスプール賞を獲得したときのインタビューで「作品のインスピレーションはどこから?」という質問に答えたマルタン・マルジェラ本人のコメントです。
88年パリコレに正式デビュー以降マルタン・マルジェラは『メゾン』としてメディアに連絡するため、「私」ではなく「私たち」と表現しています。
そもそもインタビュー自体が珍しくさらに「私」と言ってるインタビューは非常に珍しいです。
1984年:ジャンポールゴルチエとの出会い
1984年、初めてパリで見たジャン=ポール・ゴルチエのショーに感銘を受け、デザインアシスタントとして1987年までの3年間のキャリアを積み、のちにデザイナーとして活躍するきっかけとなります。
当時のゴルチエはパリの中では奇抜なコレクションを発表しており、ジェンダー、ストリートカルチャー、そしてエスニックドレスに対する彼の挑戦的なコレクションはシーンの注目を独占しました。
マルジェラがゴルチエの右手として経験を積んだことは、彼自身の批判的思考と鋭い感性やデザイナーとして活躍する経験を得るきっかけとなったでしょう。
1988年:自身のブランド「 MAISON MARTIN MARGIELA 」設立
1987年、ジャン=ポール・ゴルチエの元を去った翌年1988年にブリュッセルの小売業者である ジェニー・メイレンスと共に自身名を冠するブランド「MAISON MARTIN MARGIELA(メゾン・マルタン・マルジェラ)」を立ち上げ、パリの目印も何もないスペースに一番最初のショップをオープンし、アントワープの12レオポルド通りに小さなスタジオを構えます。
1989年:ブランド初のコレクション発表
1989年から1994年の5年間に発表された最初の10コレクションに、その後の仕事に読み取れるマルタン・マルジェラのマニフェストがこめられています。「デストロイ」と形容されるように服を解体した服作りをし、裏を表に出し、未完のままで、、、さらに巨大あるいは窮屈なほどに小さいという極端な寸法の服作りや、立体ではなくまっ平らな2Dのような服というように、コンセプチュアルなアプローチでこの5年の間、服の概念を覆し続けてきたマルタンマルジェラ。
衝撃的なクリエーションは驚きであってもチープでも下品でもなく、エレガンスとエモーションがあり、時にユーモアも感じられます。
毎シーズン、テーマを変えて発表されるのが通常ですが、マルタン・マルジェラはひとつのテーマを複数シーズンかけて追求、展開します。また、毎回ショー会場に選ぶのは、使われていない駐車場や地下鉄駅など、当時のクリエイターの誰も思いつかないような場所、という風に発表する服以外にもファッション界自体にに斬新な提案をしてきました。
1989S/S
自身のブランド「メゾン・マルタン・マルジェラ」を立ち上げた1988年10月23日にブランド初のコレクション1989S/Sをパリで発表します。
華やかなファッションショーが繰り広げられていた80年代にマルタン・マルジェラは華やかとは言い辛いアングラ的な会場でスタートしました。素晴らしいテーラーリングのセンスに加え、タトゥーに見えるトロンプ・ロイユ(騙し絵)、「タビ」シューズ、表に出したタック、18世紀のネクタイにインスパイアされた髪飾りを首や手首に、、、などその後のコレクションで繰り返し使われるアイデアが詰まっています。
他にもスレンダーなロングシルエットの洋服を身に纏ったモデルが、マスクで顔を覆い隠し、赤いペイントを施され白いランウェイに色を付けながら歩いていく斬新なコレクションを発表します。コレクションの最後、マルジェラは顔出しをしませんでした。
「ここにあなたが見に来たのはスーパーモデルでも私自身でもない。私のデザインした服である。」 と観客に視覚で訴えかけたマルジェラのデビュー作です。
初のコレクションは「反モード(アンチモード)」を掲げ、「脱構築( デコンストラクション )」や全ての常識を覆すものであったことから「デストロイ・コレクション」と称され、高級志向の世の中を覆す「ポペリズム」と言われる90年代のトレンドを構築しました。
その後90年代に流行する、グランジファッションの先駆的コレクションとも評されました。
1989₋1990A/W
自身ブランドの2シーズン目となるこのコレクションは割れた皿をワイヤーで繋いだベスト、肩がすぼまったジャケット、1940年代の舞台衣装にインスパイアされたスパンコール刺繍が施されたニットなどが印象的です。
モデルたちの爪はシルバーで黒のリボンを指輪のように5本の指に巻いています。
1990S/S
200パーセントに拡大した服が登場した1999年の春夏はネットやプラスチックに覆われていて決して動かないドレープを作り上げました。前のシーズンでは首輪でしたが今シーズンはペイントされた革の拘束ブレスレットが登場します。
1980年代を好まなかったマルタンは1990年代の到来を盛り上げるためなのかモデルの身体に「9」や「タビ」ブーツのヒール部分に「90」とペイントしました。
さらにショーに近隣の子供たちを招待し、モデルたちが歩くコレクション会場を子供たちが走り回る演出を加え話題になりました。
コレクションギャラリー
1990-1991A/W
前シーズンに登場したドレープは動かないように固定し、「タビ」シューズは使用せずに釣り用の膝上ブーツをコレクションに加えました。写真右端のパンクニットはマルタンの母が箒の柄で編んだものです。
1991年:メゾン初のアーティザナルラインの誕生
1991S/Sのコレクション発表とほぼ同時期にメゾン内に「アーティザナル」 設けられました 。
マルジェラには現在13ものラインが存在します。詳しい話は別の記事にしますので今回はアーティザナルラインの話です。
アーティザナルラインは13ラインの中で、最も値段が高く、また最も製作に時間を要するアイテムが展開されているのが「0」と「0 10」を冠する「アーティザナル」と呼ばれる解体再構築ラインのことを言います。
このアーティザナルラインはマルジェラの中でも特別な意味を持つラインで、マルジェラのデザインや創作活動の根幹といっても過言ではないでしょう。
このラインではマルジェラチームが世界中を旅して収集したアンティークやヴィンテージをひとつひとつ解体し、それらの構成要素を丹念に検討、研究して、マルジェラのエッセンスを加え一着の衣服に仕上げた作品を展開しています。 一着を作るのにとてつもない時間がかかるので、現在は既製服での展開はなく、オートクチュール(オーダーメイド)での展開のみとなっています。
1991S/S
このシーズン、モデルを務めた女性の年齢はバラバラでした。そのモデルの髪にはバラの花弁が散りばめられました。
1950年代のパーティードレスを洗いにかけサイズが小さいのでフロントをカットして羽織りにしてリサイクル使用しました。ペンダントトップは1720年代のプロイセンの僧侶によってつくられた日時計のレプリカです。
1991-1992A/W
メゾン・マルタン・マルジェラのアトリエ内でこのコレクションは発表されました。ショー形式ではなく会場に立っているモデルたちが服の説明を行うという形式の珍しいコレクションでした。2シーズン前の「タビ」シューズがサボになって登場し、内側のリボンをウエストで絞ると背中が平らなシルエットになるギミックが加えられています。
右端のセーターはミリタリーソックスを縫い合わせカーキにペイントした「メゾン・マルタン・マルジェラ」のアーティザナナルラインのセーターです。
1992S/S
1960年代から閉鎖されている地下鉄駅でショーが開催されました。体型もさまざまな素人のモデルが自分たちで髪を結ってコレクションに出演しました。モデル全員が目のわきに2粒のクリスタルを手は赤紫に染められている。
マルジェラはもともとスカートは好まないがこのコレクションでは古いスカーフをエプロンスカートに変形しました。
蚕の市で見つけたままのようにスカーフにはシワが付けられており、モデルたちの身体には身に着けているスカーフのモチーフがボディペインティングされています。
1992-1993A/W
救世軍の倉庫でのショーは、チャリティー目的での販売用に購入されストックされた家具がゲストの椅子代わりになり、楽隊のファンファーレの音にのせて赤い髪のモデルたちが歩きました。モデルによっては同じ服を着た自分の子供と一緒に出演するモデルもいた。
1970年代の革のコートをトランスフォームさせたドレスのほかに、裏地用のアセテートで作られたスカートなどが発表されました。
1993S/S
地方の閉鎖された劇場が持っていたルネッサンスから18世紀ごろにインスパイアされた舞台衣装をオークションで入手しました。その舞台衣装の状態はひどく、トランスフォーム、修繕され白と黒の色分けが行われました。
ほかにもチコート風のスカート、ギャロンのトリミングされたジャケット、首周りにペンダントのように縛られて吊されている、またはテープで貼られている緑の小枝など。。。
モンマルトル墓地を挟んで午後8時30分に白のコレクションと黒のコレクションの2つのショーを別の会場で開催しました。この前代未聞の試みには世界各国のバイヤーやファッションジャーナリストを困惑させたことでしょう(笑)
コレクションギャラリー
1994年:レプリカラインの誕生とコレクション形式の改革
彼は伝統的なランウェイの形式に疑問を抱きました。マルジェラは1994年のシーズンを店頭に並ぶ前にコレクションをバイヤーやファッションジャーナリストたちに見せることを拒否しました。しかし、プレゼンテーションにはマルジェラらしくひねりを加えました。
そしてこの年のA/Wに発表され、一世を風靡した「エイズ」Tシャツは、以降毎シーズン浸食が登場し売り上げの一部はフランスのチャリティー団体「AIDES」に寄付されています。
1994年S/S
ブランド10回目のコレクションでは、 驚いたことにデビューから1993〜94秋冬コレクションの中からセレクションされたピースの復刻という回顧コレクションで、モード史上例をみないものでした。モード界の今までの仕組みに一石を投じる試みでもあり、また過去のコレクションを買いそびれた顧客やファンの希望に応えるものだったそうです。プレゼンテーションのモデルたちの腕や首などには、紹介する服が発表されたシーズンが黒くスタンプされています。
好みの過去のコレクションを4~5ルック着用した年齢、職業、国籍の異なる7名の女性たちを各人が希望した場所でマルジェラ自身が撮影し8ミリフィルムで紹介した。映写中にコメンテーターを務めたのもマルジェラ本人。小さなグループに分けられたバイヤーやファッションジャーナリストを相手に数回セッションが行われました。
1940年代の4着のプリントドレスをパッチワークしてつくられたドレスや、1970年代のムートンから作られたブルゾンが印象的なコレクションでしょう。
1994₋1995A/W
5つのグループからなるこのコレクションは1999年までこの方式でのコレクション発表をマルジェラは続けました。
グループ2ではマルジェラが以前から実施しているように昔の服のレプリカ。古い服を復刻した「レプリカ」ラインがここで生まれ、以降この後もシーズンごとに発表されるようになりました。
左側は生まれ故郷のベルギーで1940年代末に作られたスーツのリプルダクション。右が同じくベルギーで作られた1970年代に作られたメンズスーツのリプるダクション。いずれも当時のままのプロポーションを忠実に再現しており「レプリカ」はこのように復刻の元となった服の時代や用途などを右の写真のようにラベルに明記しています。
グループ3では1960、70年代の人形の服をプロポーションを変えずに人間の大きさにリサイズしてものでスナップやファスナーは巨大化し、新しいプロポーションのニットやブルゾンを提案しました。
1995年S/S
スリップドレス、オーダーメイドのチェックスーツ、ぱりっとした白いストラップレスのトップス、まとまったボディスのあるロマンチックなナイトドレスが印象的なコレクション。
もしかするとこのころから翌年に起こる事態の予兆があったのかもと想像させられます。
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1995₋1996A/W
フェイスマスク以外にこのショーを際立たせたのは、マルジェラの色の使い方でした。ホットピンク、ガーネット、ラベンダー、フロアレングスのドレスから、ケープ、メカニックのジャンプスーツまで、紺と黒が上手く混ざり合っています。多くのルックはヘアトリムベルトで髪が結ばれていました。見方にもよりますが、全体的に鋭い雰囲気で「救世軍の気分」と呼ばれるようになりました。
フィナーレはマスクされていないモデルと気球を特色にしました。風船だけでなく花火や星型の杖など、陽気で祝い、子供らしいタッチだったでしょう。
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1996年:ミニマリストへの変異
ブランド設立当初から「デストロイ」と形容されていたマルジェラのコレクションですがこの時から「ミニマリスト」と呼ばれるようになりました。
どのような変化があったのか見ていこうと思います。
1996S/S
マルジェラと親しいカメラマン4名が撮影した写真を服にトロンプロイユしました。
過去にプリントのスカーフを使用することはあったがコレクションのためにプリントをクリエイトしたのはこれが初めてです 。 透明な梱包テープで靴の足を固定したモデルが組み立てられたテーブルで作られたワインボトルが並ぶキャットウォークを歩いていると、ポンポンを振るうチアリーダーが一緒に踊り歩きます。モデルはニット、ストライプ、そしてスパンコールのトランペットの写真プリントがされた服を披露します。そのうちのいくつかは2012年に「メゾンマルタンマルジェラ」がH&Mとコラボレートしたときのインスパイア元になりました。
1996Autumn
マスクは半塗装の顔に置き換えられ、そしてはしごにされたナイロンのストッキングはブランドのアイコンとなっていた「タビ」ブーツの上に着用されました。今シーズンのスタイリングは、ズボンは広く、ベルトはさらに広く、そして手袋は袖のように倍増するほど伸びたものでした。
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1997年:エルメスのクリエイティブディレクターに
1990年代半ばに大手メゾンブランドが一斉にクリエイティブディレクターを変更する動きがありました。
マルジェラ自身も1997年~2003年まで自身のメゾン「メゾン・マルタン・マルジェラ」と並行して「エルメス」のクリエイティブディレクターとしてレディースのプレタポルテを12コレクション発表しました。
「エルメス」の長く続く伝統的な技法を継承しながらも無駄と思われる記事は取り除きミニマルにシェープした彼らしいデザインを提案していました。
そんな大役を任されながら、同年1997年にコンテンポラリーラインにあたる「ライン6」後の「MM6」を設立と輝かしい活躍の一年となりました。
1997年コレクション
1997S/Sと1997-1998A/Wのコレクションはメーカー名だがマネキン人形の代名詞である「ストックマン」をテーマに服作りの工程を服作りに活用しました。 マルジェラの考えるファッションデザインの基は解剖と再建でした。
マルジェラのリネントップは番号が付けられていて、そして文字が書かれていました。一番下に印刷されているのは「セミクチュール」という言葉で、衣服の製作に関わっている匿名の誰かを想像させます。
1997Autumn
このショーでは、レピュブリック広場にある3つのミニ会場の間を白いバスで模型が移動しました。このコレクションには、前シーズンの洋裁制服のトップスの新たな試みと、衣料品製造の素材とプロセスが含まれていました。
型紙で作られたジャケット、目に見える飾り付けのあるステッチ、文字通り部分的に一緒に固定されたレイヤードルックがありました。片腕と非対称の衣服は、中途半端であるという印象を与えましたが今までのモードに対するアンチテーゼの提唱なのではないでしょうか。
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1998:ギャルソンとの関係とライン10の発表
「ライン6」の発表の翌年、1998S/S、創設者のマルタン・マルジェラは影響を受けた日本の代表的なファッションデザイナー、「川久保玲」のブランド「コムデギャルソン」とコラボレーションします。
また、自身のブランド「メゾン・マルタン・マルジェラ」では「ライン10」として知られるメンズコレクションを展開、同時期からコレクションでのカレンダータグの使用も開始しました。
1998S/S
前シーズンの服の型紙にインスパイアを受け、2次元の平面服が生まれました。
白衣の男性がオークションのようにハンガーに衣服をかけ、ショーに招待された観客に 「身に着けていないとき、これらの部分は完全に平らです」と汲み取らせました。モデルの衣服を示すビデオも再生されました。プロポーションに魅了された1990年代、マルジェラは大人サイズに拡大された人形のワードローブを再現しました。このシーズンでの課題は、ジオメトリ、例えば立体ではないときに完全に平らになるような二次元の衣服の作り方でした。
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1998Autumn
マルジェラは服のすべてにこだわっていました。このシーズンの服がどのように作られたか、それらがどのような形をとったか、そして販売された方法。彼の焦点は、上映された女性ではなく、衣服にあり、そして彼は同年春のシーズンから2年連続してライブモデルなしで上映しました。1996Springでは白衣の男性でしたが1996Autumnではスタイリストのジョンハウによるマリオネットが登場しました。このコレクションの最も印象的な作品はマルジェラのシグネチャーパゴダスリーブでプラスチックで包まれたルックスでした。
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1999Spring
マルジェラがレーベルを立ち上げてから10年後、彼のSpring ’99ショーは最高のヒットコレクションとなりました。トロンプロイユのプリントは、1996Springに展示されたもの、人形の服は1994Autumnのコレクション、ストックマンのマネキンのトップは1997Springに飾られたものを参照しています。また、1950年代のバラエティに富んだスポーティーなパンツフロントがエプロンとして着用されていました。
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前編まとめ
衣服の再構築・再定義、ショーのスタイルなどマルジェラのやってきた手法は、多くの人々に影響を与え、ファッションの歴史に最も大きな影響を与えたデザイナーの1つと言われる所以です。
マルタン・マルジェラの誕生から1999年まではいかがですか?
アンチテーゼを認めさせる圧倒的才覚
ブランド設立初期から行ってきた新たな試みは当時、決して簡単に受け入れられるようなものではなかったと思います。衣服に対する解体・再構築・再定義はだれがやっても称賛されたものではなく天才デザイナー「マルタン・マルジェラ」だからこそ称えられ後世に影響を与えたのでしょう。
天才の周りには天才が
マルタン・マルジェラと同郷で彼に触発された天才デザイナーの一人「ラフシモンズ」や同校出身の「アントワープSIX」と呼ばれる同世代の天才デザイナーたち。
彼の周りには多くの天才デザイナーが「天才」だといわれる以前から存在し、刺激しあっていたことでしょう。