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Sacai(サカイ)とデザイナー阿部千登勢

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”#サカイ(Sacai)と阿部千登勢”

1⃣ Sacai 誕生秘話

1⃣ 1. デザイナー阿部千登勢の生い立ち

1965年11月9日 : Sacaiの創業者である阿部千登勢 誕生

サカイ(Sacai)の創業者である阿部千登勢。 1965年11月9日生まれ。岐阜県中津川市出身で研究者の父と仕立て屋の母。今は銀行員となった姉というごく一般的な家庭でしたが。器用な母はオリジナルデザインの服を作るなど日常的にミシンやデザイン、ファッションというものに囲まれて育った事が今のSacai(サカイ)につながった事は間違いないでしょう。

きっかけは三宅一生・Issey Miyakeのテレビコマーシャル

阿部千登勢がデザイナーを志したのは小学五年生の時で、 テレビコマーシャルで出演していた 三宅一生・Issey Miyakeを見たのがきっかけです。その日から、現在までデザイナーという夢を変わらず持ち続けてきました。 小学生のときは「ドゥファミリィ」 、 中学では東京・原宿の「ミルク」がお気に入りと幼いころから人と似たファッションをするのが嫌だったそうです。

小学生のときにベルボトムを当たり前に他の子と同じように履きたくないとスリムなデザインにお母さんにリペアしてもらうなどすでにデザイナーの片鱗が見え始め高校時代にはコム デ ギャルソンに古着を自分でMIXさせるなど既にこのころにはただファッションを楽しむというよりも創ることが必然といえるぐらいに。そして地元では奇妙な服装をしていることで知られていたそうです。

母親に一緒に歩きたくないと言われたこともあったそうですが、それでも自分の着たい服を選び続けたそうで、幼いころからファッションに対する強いこだわりを持っていたことが窺えます。大学は、両親の反対もあり東京の有名な文化服装学院 に進学することができず、地元の名古屋の服飾専門学校に進学しました。そして卒業後は、大手アパレル会社に就職を決めました。

https://www.instagram.com/p/BZx1sWplHBP/

1987年:「ワールド」に入社

名古屋ファッション専門学校服飾科に入学

イッセイミヤケのテレビコマーシャルを見てデザイナーを夢見た小学5年生からずっと東京の文化服装学院への進学を夢見た彼女ですが。遠く離れた東京への進学を両親は反対しました。それもあって片道2~3時間で通学できる名古屋ファッション専門学校への進学します。

自分でデザインした洋服で入社面接に

名古屋ファッション専門学校を卒業後、ワールドへ入社面接を受けるため自身でデザインした レースのフリルがのぞくジャージ素材の黒のジャンプスーツに白い靴という当時リクルートスーツ着用が今以上に当たり前の時代にトンでもない奇抜なスタイルで面接にのぞむという当時から自身のスタイルと信念ともいえる自分のポリシーがあったのでしょう。

それからワールドに無事入社し「スチェッソ( SITSESO )」というブランドのデザインを担当します。ワールドには約1年在籍したのですが。ワールドの仕事に嫌気がさしてやめたとかではなく幼いころから憧れていたコム デ ギャルソンのオフィスが職場のすぐそばにあり実際にそこのオフィス近くでカリスマのような存在だと羨望のまなざしで見ていた川久保玲を見かけたりするうちにコムデギャルソンで働きたいという想いを抑えきれずに沸々とした感情を持つようになります。

そんなあるとき、コムデギャルソンで”カットソーのパターンカッター ”を募集していることを人づてに聞きすぐにワールドを退職し応募することに。

1⃣ 2. 川久保玲との出会い

コムデギャルソンのオーナーデザイナー川久保玲

当時の風潮として、デザイナーブランドで働くよりも大企業に勤めることのほうが正しいと考えられていましたが、彼女はそれに納得がいってませんでした。しかし、たまたま職場の近くにコムデギャルソンの事務所があり、 そこから出てくる白い襟付きシャツや黒いズボン、ボブのヘアスタイルのスタッフが印象的でした。

当時のコムデギャルソンはパリコレクションで「黒の衝撃」としてその名を世界中に知らしめ、阿部千登勢にとってもあこがれのブランドでした。そして、約1年後に仕事を辞めコムデギャルソンに勤めることになりました。ここでの仕事は、雑誌のような何か別のものを真似することを求めるのではなく、オリジナルのアイディアを常に求められ、あらゆる問題をクリエイティブに解決する素養を身に着けることが必要でした。元々器用で、規律に厳格な性格だったので、またとない学習の場でした。そして、すぐにその才能を開放させ信頼を得ていきます。その後、トリコ・コムデギャルソンでニット専門のパタンナーとして2年経験を積んだのち、ジュンヤワタナベのもとで働くこととなります。

コムデギャルソンを退社・服との向き合い方の変化

転機が訪れたのは1997年、阿部千登勢が子を身ごもった時のことです。コムデギャルソンは勤労時間が長く、時間に追われるルーティーンワークだったので、続けることは困難と考え退社を決意しました。退社後の1年間は何もせず、家にいて子守りなどの家事に専念していました。このころから服に対する考え方が少しづつ変わってきたそうです。

1⃣ 3.1999年に「sacai」(サカイ)立ち上げ

当時着ていた服は、ジーンズ・チノパン・Vネックセーター・Tシャツなどで、自分が着たい服の少なさに飽きれました。そこで、自分の着る服をどうしたら面白くできるか考え始め、シンプルかつ機能的で手早く着れる、かつ興味深いデザインを考案し始めます。そこで、セーターとシャツを合わせて一つの服にする実験的な服を作りました。これが阿部千登勢がデザイナーの世界に戻るきっかけとなります。

1⃣ 4. 始まりは3型のニット

その後さらに、試行錯誤を続け納得できるデザインをついに完成させます。sacaiのブランドの始まりは5型のニットとして知られていますが、実際は3型のニットから作り始め、その後展示会を行った際に追加注文として2型追加されました。最初はオーダーも少なくあまり期待はしていなかったそうですが、サンプルを見に来た人々は皆驚いて、次々に注文をしていきました。自宅で行った展示会は玄関に人が収まらず、ドアの外に並んでもらったほどでした。それほどまでに、阿部千登勢の作る服のデザインは衝撃的だったのです。これが、sacaiの全ての始まりでした。

1⃣ 5.  ブランド名『sacai』の由来

3⃣ 2. sacaiの名前の由来

sacaiはなぜ「sakai」ではないのか疑問に持った方はいるのではないでしょうか。それは、阿部千登勢の旧姓と旦那である阿部潤一 に関係しています。 阿部潤一は有名なドメスティックブランドの「kolor」のオーナーデザイナーです。ジュンヤワタナベに勤めている時期に出会い、結婚後にsacaiの立ち上げを勧めてくれたそうです。sacaiがここまで有名なブランドになるために、なくてはならない存在です。

そして、「sacai」と「kolor]この2つのブランドの名前を見てもうお気づきかもしれませんが、お互いのブランド名のスペルのkとcを入れ替えたのです。互いがデザイナーであることを尊重し、認め合う関係は夫婦としても理想的です。

1⃣ 5. 橋本千子の支え

2002年に阿部千登勢は友人の紹介で橋本千子を最初のスタッフとして雇用しました。 橋本千子はパタンナーとデザインを主に行いましたが、途中からテキスタイルの担当となりました。13年間在籍し、sacaiの技術の支えとなり、阿部千登勢のよき理解者であり続けました。2016年には、自身のブランド「ハリカエ」をスタートさせ、現在まで着実に業績を伸ばしています。 ハリカエではsacaiの下で取得した技術が生かされており、着用者だけがわかる独自の素材感とディテールまでこだわられたデザインが魅力的です。sacaiには現在数多くのスタッフが在籍しており、それぞれの感性でsacaiのデザインと技術を支えています。

2⃣ パリでshow開催までの道のり

2⃣ 1. パリで初めて展示会を行う

その後、川久保玲に自分の作ったデザインを見せることを決心します。デザインを見せると、何も言うことなくただうなずくだけでした。しかし、間もなく阿部千登勢のデザインがディエチコルソコモコムデギャルソンに並びます。それはつまり川久保玲に認められたということでした。川久保玲から学んだことは多く、デザインというのは革新的似たものを作ってはいけないという考えは阿部千登勢に大きな影響を与え、5型ニットもデザインの根源にはその思想が宿っていました。自信を得た阿部千登勢は、徐々に顧客を増やしていき2004年にはパリで展示会を開くこととなります。

2⃣ 2. sacai luck をスタート
sacai luck 2015年春夏コレクション

パリの展示会で評価を受け、ブランドとしての事業拡大を視野に入れ始めた頃に「日常の上に成り立つデザイン」をコンセプトとした、エレガントな大人のためのライン「sacai luck」を始めます。 sacaiに対するファッション業界の反応は熱狂的で、見る人を驚かせました。それまで日本の代表的なブランドとして挙げられていたコムデギャルソン・ヨウジヤマモト・イッセイミヤケとは違い、象徴的または政治的なメッセージは持っていません。どのアイテムを見ても、sacaiの服はどこかクラシックで機能性が必要とされる現代にフィットしたデザインとなっています。 その価値観がどこか日本的で、今までに無い価値観であるため、海外から受ける評価は高いです。

2⃣ 3. メンズコレクションをスタート
sacai 2018年秋冬コレクション

sacaiは年を増すたびに市場を拡大していき、2009年には、メンズウエアの展開も始めます。種類の違う衣服のパ―ツを合わせ、立体的な作りを特徴とするデザインが確立されていき、sacaiらしさが構築されていきました。元々のレディースのアイテムと、新しく提案されたメンズのアイテムは、互いを刺激しあうように革新的なデザインを次々と生み出していきましたが、緻密でジグゾーパズルのような組み合わせ、それらをスムーズに組み合わせる高度な技術は一貫しています。

2⃣ 4. パリにてショーを行う

2011年におこなわれた初のショー形式の発表はsacaiに対する評価を確かなものとしました。会場に集まった目の肥えたバイヤー含め、多くの人を魅了しました。 ショーの反響は大きく、世界からの注目はより一層増すこととなりました。阿部千登勢のショーにかける思いは強く、動きのある状態で服を見せることで、展示会では伝えきれなかった、ディテールや立体的な表情を見せることができます。ショーを行うことで得た感触はその後のクリエイションにも十分に活きています。同年、日本に初の旗艦店を南青山に展開し、ここでは、sacaiのウィメンズ、メンズなど全てのコレクションが揃う日本で唯一の店舗となりました。

3⃣ 唯一無二のブランドへ

3⃣ 1. 様々なブランドとのコラボ
Sacai× The North Face のコラボアイテム

その後、sacaiは様々なブランドとコラボしていきます。 阿部千登勢は「コラボレーションするときは平等でありたいです。どちらかが強くて、どちらかが嫌な思いをするのは良くないと思っています。」と言い、コラボする相手とは常に互いの理解を深め、納得しなければ次の段階へは踏み込まないという点は一貫しています。
2013年パラブーツ、 2015年NIKE、2016年エンダースキーマ、 2017年ラコステ、ザノースフェイス,アンダーカバー、2018年ローレンス・ワイナー 、 ニューヨークタイムズ紙のキャンペーン「Truth」 、ペンドルトン、2019年 NIKE 、 A.P.C、プチバトー、フラグメントデザイン,Beats など、様々な分野のブランドとコラボしている。エンダースキーマであれば、革製品のシューズ、ザノースフェイスであればボンバージャケットなどコラボ相手の製品技術を最大限活かすのもsacaiのコラボの特徴です。

3⃣ 2. sacaiらしさとは

sacaiの服を着る人なら、誰もが共感する感覚に「sacaiの服は見たらすぐにわかる」というものがあります。それは、阿部千登勢の目指すデザインが他のブランドとは異なる目的をコンセプトとしているからです。それは、ファッションが手軽で機能的というだけではなく、スピードの速い現在のライフスタイルに可能な限り適応できるものであるべき、という目的を追求しているからです。この考え方はsacaiの愛好家には根付いており、彼らは仕事の時はもちろん、ドレスアップする時、カジュアルに着たい週末など、どんな場面にも順応して自分なりに着こなします。これこそが、従来のブランドとの違いであり、sacaiらしさです。

3⃣ 3. [本物]のブランドを目指して

阿部千登勢は「一流」という言葉で表されることに疑問を持っています。単に知名度があるからとか、売り上げが高いからなどの判断基準はあてにしません。服を作るにあたって、服自体のクオリティの高さや期限を守ってデザインを完成させること、スタッフの取引先との関係は良好かなど、服を顧客に届けるまでの全ての環境に徹底してサービスを行き届かせています。それを「一流」とは言わず、あえて「本物」と表現します。阿部千登勢はどこまでもストイックにブランドと向き合い、高みを目指していくことでsacaiを着実に「本物」のブランドへ近づけています。

4⃣ sacaiを選ばれる理由

4⃣ 1. sacaiを着る有名人

ラッパーのフューチャーは ボンバージャケットを着用


女優ゼンデイヤはセットアップを着用

プロバスケットボール選手レブロン・ジェームズはTシャツを着用

4⃣ 2. sacaiを選ぶ理由

sacaiのデザインの特徴はいくつかの要素をドッキングする点ですが、それによって完成する製品はどのジャンルの服を好む人でも取り込むことができます。スポーティ・ミリタリー・クラシックなど交わることの無かった系統が混ざり合い、新たな世界観を作り出すため、sacaiの服を初めて見た場合、その衝撃と期待の感情に見舞われます。なので、sacaiを着る人物はストリートテイストの服装からクラシックな服装を好む人まで多岐にわたります。このミックスという価値観はどこか日本的であり、sacaiにしかないものなのでこれが選ばれる大きな要因となっています。

4⃣ 3. sacaiのアプローチ

sacaiのクリエイションは独自のスタイルを確立していますが、それに反してアプローチは精妙です。コレクションでは革新的なアイディア・ディテール・ハイブリットな技巧に飛んでいますが、それを大々的に主張したり、これ見よがしに注目を集めたりはしません。今となっては、世界中にその名は知れてはいますが、その道のりは地道で苦しい場面も多かったはずです。それでも、今と変わらないソフトなアプローチをこれまでも続け、独自性のあるブランドとして地位を確立しました。これからもそのアプローチが変わることはないはずです。なんとなく流行だから着るブランドではなく、 sacaiだから着たいと言う顧客を一人でも増やすことを目的とし、これからも長く愛されるブランドであり続けるはずです。

5⃣ まとめ

今回はsacaiの歴史や魅力にフォーカスして記事を作成しました。今までsacaiを着ることがなかった方にもこの機会にぜひ一度sacaiを着て頂きたいです。どんな系統のファッションを好んでいても、違和感なくコーディネートに取り込むことができるのがsacaiのデザインなので、全ての方にお勧めします。sacaiは日本では数少ない、世界から評価を受けているブランドです。その評価はこれからも 間違いなく上がっていくので、今後もsacaiに期待しましょう。

親日家『カニエウエスト(KANYE WEST)の歴史』YEEZY/イージーのデザイナーの素顔に迫る

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”WHO IS KANYE WEST?”

カニエウエスト(KANYE WEST) プロフィール

出生名 カニエ・オマリ・ウェスト
Kanye Omari West
誕生 1977年6月8日(41歳)
身地 アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ
ジャンル ヒップホップ
ポップ
R&B
職業 音楽家
音楽プロデューサー
ラッパー
シンガーソングライター
作詞家
作曲家
編曲家
歌手
MC
デザイナー
ファッションデザイナー
活動期間 1996年 – 現在
家族父親: レイ・ウェスト(Ray West)
母親: ドンダ・ウェスト(Donda West)
妻 : キム・カーダシアン ( Kim Kardashian)
子供:セイント・ウェスト、 Chicago West、 ノース・ウェスト
ファウンダー カニエウエストファウンデーション (Kanye West Foundation )
公開サイト www.kanyewest.com
Youtube KanyeWestVEVO 
Twitter @kanyewest

共同作業者
ジェイ・Z
コモン
ポール・マッカートニー

教育 ・シカゴ州立大学
・ アメリカ芸術科学アカデミー 
関連リンク Kanye West – Wikipedia
ye (@kanyewest) | Twitter

2000年代初頭から現在に至るまで楽曲プロデュースやフューチャーリング・コラボレーション、自身のソロ活動により数々のヒット曲を生み出しているほか、ファッション界では知らない人がいないぐらい瞬く間に世界の一流デザイナーとなっている。

幼少期・子ども時代

1979年~1997年

写真ジャーナリストの父と英語教授の母の間に生まれたカニエウエストは、ほどなくして3歳の時から両親の離婚で母と共にシカゴへ移住すした。

その後も10歳の頃に南京に移住するなど環境は変わりながらも、詩への興味から音楽への情熱を育んでいき、母の理解と協力を得て、カニエは音楽制作に没頭していく。


音楽に没頭

プロデューサーとしてローカルなアーティストに楽曲提供を続けていたカニエは、このとき既に彼の代名詞ともいえるソウルのボーカルを早回ししてサンプリングするスタイルを確立させていた。

その後シカゴの美大に進み絵画を勉強するも、多忙を極める大学生活の中、音楽活動との両立に悩んだカニエは20歳で大学を中退し、自分のミュージシャン・ラッパーへの道を。

音楽

1990年代半ば~音楽プロデューサーとしての活動を開始

1990年代半ばにプロデューサーとしてのキャリアをスタートさせた。1990年代末には、メジャーアーティストへ曲を提供するようになったがヒットに恵まれず、シカゴの美大に通いながら音楽活動を続けた。

2000年~2011年 Jay-Zと出会い、『The Blueprint』で一躍有名に。


Jay-Ztとの出会い

2000年代に入ると、Jay-Zに才能を見出されプロデューサーとしてロッカフェラ・レコード(Roc-a-Fella Records)と契約を結ぶ。2001年、ジャクソン5の代表曲である「帰ってほしいの(I Want You Back)」を大胆にサンプリングしたJay-Zの「Izzo (H.O.V.A.)」をプロデュースし、全米8位のヒットを記録する。プロデューサーとして5曲提供したJay-Zのアルバム『The Blueprint』は音楽メディアに2000年代の名盤の一つに選ばれるなど大成功をおさめ、カニエはトッププロデューサーとしての階段を駆け上ることになる。


Jay-Z ft Kanye West

2002年~ 車の大事故&名曲『Through the Fire』の誕生

2002年10月23日、LAのレコーディングスタジオから自宅までの道中、居眠り運転で大事故を起こす。砕けた顎を修復するために入れられたワイヤーを題材にして2013年に生み出された曲が、チャカ・カーン(Chaka Khan)の名曲『Through the Fire』をサンプルした『Through the Wire』。


Through the Wire -Kanye West

2004年~ ソロデビューアルバム『The College Dropout』を発表

2004年2月10日にデビュー・アルバム『The College Dropout』をリリースした。全米2位を記録する。

以後、現在に至るまで様々なアーティストに楽曲を提供し、自身もラッパーとして活動。

2005年~ 2枚目のアルバム『Late Registration』をリリース

『Late Registration』は第48回グラミー賞8部門ノミネートおよび3部門受賞したアルバム。サンプリングで弦楽器を使うなど、当時のヒップホップとしては珍しい作品となっている。


Late Registration Album

ローリング・ストーン誌によって「2005年最優秀アルバム」に選定された。

また、カニエは2005年の米タイム誌「今日最も影響力の強い100人」の一人に選定された。

2007年~ 3枚目のアルバム『Graduation』をリリース

9月11日、3枚目のアルバム『Graduation』をリリース。カニエ自身がファンだという村上隆がアートワークを担当。アルバムからのシングル「Stronger」はアメリカ国内だけで500万枚を売り上げ、米英で1位を記録する。第50回グラミー賞では最多8部門にノミネートされ4部門を受賞した。

2008年~ 4枚目のアルバム『808s & Heartbreak』をリリース

カニエは2017年11月に最愛の母の死去、その翌月に婚約者であったアレクシス・ファイファーとの破局を経験しており、そうした喪失による傷心(Heartbreak)はアルバム全体の大きなテーマとなっている

最愛の母

『808s & Heartbreak』のセールス・評価ともに彼のそれまでの作品と比べると決して高いものではなかったが、後のドレイクやフランク・オーシャンといったアーティストの土台を作った作品であるとしてその歴史的価値は見直されている。

2010年~ 最高傑作である5枚目のアルバム『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』をリリース

カニエウエストが2010年に出した『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』、これは人生で出会ったアルバムのなかでも特別な作品である。

2011年~グラミー賞を受賞!!!

カニエウエストがCEOを務めるクリエイティブエージェンシーのDONDAのクリエイティブディレクターのオファーを貰い引き受けている。ちなみにこの会社のネーミングは彼カニエウエストの愛する最愛の母親”Donda”から名付けられたそうである。

カニエウエストは Jay-Zと ヴァージル・アブロー と協力して生み出したアルバム「Watch the Throne」のグラミー賞を受賞した。


2013年~ 6作目となるアルバム『イーザス(Yeezus)』をリリース

このアルバムの曲の サウンド面は、これまでの作品とは大きく異なり、攻撃的で、インダストリアルな色が強いものとなった。

2016年~ 7作目となるアルバム『The Life of Pablo』を リリース

このアルバムは ストリーミングサービスのTIDALで 限定される 。

2017年~ 『ye』 『KIDS SEE GHOSTS』をリリース

6月1日に自身のニックネームであるYe(イェ)を冠したアルバム『ye』をリリースした。この作品で8作連続全米1位を達成した。

6月8日にはキッド・カディとのコラボアルバム『KIDS SEE GHOSTS』をリリース 。

ファッション

子供の頃から絵の才能があるカニエはファッションへの関心が高く、有名ブランドのコレクション会場に頻繁に足を運んでいることでも知られている。
カニエ・ウエストのメインの仕事は音楽ではあるが、そのほとんどのキャリアにおいて、いつもファッションが絡んでいる。

2002年~ Virgil Abloh(ヴァージルアブロー)と出会う!!!

ヴァージルアブローとの出会いはカニエウエストがファッション業界に入る大きなターニングポイントに間違いない。

オフホワイト(OFF WHITE)という世界的に人気なブランドのデザイナーであるヴァージルアブローはウィスコンシン大学マディソン校で土木工学の学士号を取得している。

via the fashionpost

カニエウエストに出会ってから、翌年には アブロー はウェストのクリエイティブ・パートナーとなり、正式に協力し始める。

2009年~ LVMH モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトンでのインターン時代

ヴァージル・アブローカニエウエストはローマでFendi(フェンディ)のインターンとして参加しておりLouis Vuitton(ルイ・ヴィトン)CEOであるMichael Burke(マイケル・バーク)氏はニューヨークタイムズ紙にこの時のことをこのように語っている。


ヴァージルアブローと、カニエウェストが全く新しい雰囲気をスタジオにもたらした破壊的なベストで最適な方法にわたしは本当に感銘を受けました。


via vogue

カニエ・ウェストヴァージルアブローは、パリファッションウィークで有名な友人たちとともにComme desGarçons(コムデギャルソン)のショーの外でStyle.comのためにTommy Tonによって撮影された写真が拡散されさらに注目されるようになった。

2007年6月~ Kanye West x BAPEコラボレーション・スニーカーを発売

2009年6月~ LOUIS VUITTON×KANYE WESTコラボレーション・スニーカーを発売

アーティストKanye West(カニエ・ウェスト)が、フランスの老舗メゾン「LOUIS VUITTON(ルイヴィトン)」とコラボレートしたスニーカー・コレクションが誕生した。

とても感動している。夢の中にいるようだ。今まで数多くの音楽賞を受賞してきたが、世界一のブランドとこうしてオフィシャルに何かをできるというのは、グラミー賞にもない感動だ とても感動している、

カニエ・ウェスト

カニエウエストのコレクションは、日本において2009年7月11日より、一部のルイ・ヴィトン ストアにて順次展開をスタートしている。

2009年4月~NIKE x KANYE WEST「Nike Air Yeezy」というNEWブランドをローンチ

「NIKE SPORTSWEAR(ナイキ スポーツウェア)」 より、アーティストKanye West(カニエウエスト)とのスニーカー「NIKE AIR YEEZY(ナイキ・エア・イージー)」が登場。

カニエ・ウエストのニックネームから名付けられた「NIKE AIR YEEZY」は、NIKEの豊かなスポーツの歴史から生まれた革新と、ウエストのユニークなスタイルを思わせるオリジナルな形状、素材、デザイン要素を融合させたものとなっている。

2010年~ Virgil Abloh(ヴァージルアブロー)とのビジネススタート

実はヴァージルとも昔から親交があり、2002年に出会った頃から、ヴァージルアブローは、カニエのアーティスティック・ディレクターとして何年間も務めている。

ファッションの正式な勉強をしたことのないこの2人の若い黒人男性はファッション業界に計り知れない影響を与えてきた。

2011年~ カニエ・ウェストがパリコレクションでデザイナーデビュー

10月フランス・パリ市内で1日、ラッパーのカニエ・ウェスト(Kanye West)が手がける女性向けファッションブランドがデビュー・コレクションを開催した。

ヒップホップ界では華々しいキャリアを誇るカニエだが、デザイナーとしては全くの新人でした。デビュー・コレクションに対する評価はなかなか厳しく、高く評価されていなかった。

2013年~ A.P.C. x KANYE WEST・ HIP HOP T-SHIRT [Tシャツ]  をローンチ

2013年、フランスのブランドA.P.C(アー・ペー・セー)とコラボレーションしたカプセルコレクション「A.P.C. KANYE(アー・ペー・セー カニエ)」をローンチ。

2013年12月~ ADISAS x KANYE WEST「Yeezy」シリーズをローンチ

Kanye West(カニエ・ウェスト)がNike(ナイキ)から離れ、新たに契約したadidas(アディダス)とコラボレーションし、自身のYEEZY(イージー)ラインをリリースした。

自身のファッションブランド「イージー」を展開しているカニエは、2013年に自身初のコレクションを発表したときから提携しているアディダスとタッグを組んで、新作コレクション「アディダス カニエ・ウェスト」をローンチすることになった。

アディダスのエリック・リッキーCMOは こう語った。

カニエは他の人とは違う見方を持つ本物のキュレーターです。カニエの創造性をスポーツの世界まで広げることによって、新しい分野を開拓したいのです。クリエーターたちに新しいものを生み出す権限を与えること、それが常にアディダスの流儀なんです。

2018年6月21日 ルイ・ヴィトン2019SSコレクションデビュー


News From Ghana

Vogue Australia

「We Are The World」がテーマのルイ・ヴィトン2019春夏コレクションでヴァージルアブロー初デビューを華々しく飾りました。また見どころが満載の本コレクション。
ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)新メンズ・アーティスティック・ディレクターのファーストコレクションとなる「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」2019年春夏メンズ・コレクションが、パリ・メンズ・ファッション・ウイーク期間中の6月21日に、パレロワイヤルのコレット広場で発表された。

会場にカニエウエスト&彼の妻(キム・カーダシアン)はコレクションの豪華ゲストとして参加した。

昔から親交 があるこの2人の若い黒人男性は色々な困難を乗り越え、ファッション業界に絶大な影響を与えた。そこまでの道のりを思い出したのだろう。二人は会場で涙が止まらずお互いが抱き合い幸せが溢れていた。

~ 現在

現在カニエ自身はミュージシャンというよりも、ファッションデザイナー、yeezyのオーナー。そして様々なプロデューサーとして活躍している。

カニエ・ウェスト流スタイル

カニエ・ウェストは音楽だけではなく。彼のファッションも常に注目されている。

ハイブランドからスポーティなスタイル。ストリートでカジュアルな服に至るまで、カニエウエストのオシャレは常にトレンドを先取りしており時に物議を醸し出す。

プライベート

2012年 ~ キム・カーダシアン「Kim Kardashian」と付き合い、結婚にたどる

2012年から付き合いを始め、2013年、リアリティスターのキム・カーダシアンと婚約し、2014年5月25日にイタリアのフィレンツェで招待客200名を超す盛大な結婚式を行った。


Getty Images

2013年、娘のノース・ウェストが誕生。2015年には息子のセイント・ウェスト、2018年に次女のシカゴ・ウェストが誕生した。

カニエ・ウエストのアワード

グラミー賞 (Grammy Awards)

2013年Best Rap/Sung Collaboration ウィナー
2013年Best Rap Performance ウィナー
2013年 Best Rap Song ウィナー
2012年 Best Rap/Sung Collaboration ウィナー
2012年 Best Rap Song ウィナー
2012年Best Rap Album ウィナー
2010年Best Rap/Sung Collaboration ウィナー
2010年 Best Rap Song ウィナー
2009年Best Rap/Sung Collaboration ウィナー
2008年Best Rap Album ウィナー
2008年 Best Rap Solo Performance ウィナー
2008年 Best Rap Performance by a Duo or Group ウィナー
2006年 Best Rap Album ウィナー
2006年 Best Rap Solo Performance ウィナー
2005年Best Rap Song ウィナー
2005年 Best Rap Album ウィナー
2005年 Best R&B Song ウィナー

MTV ビデオ・ミュージック・アワード(Video Music Awards)

2015年 Best Video with a Social Message ウィナー
2011年Best Collaboration
Katy Perry Feat. Kanye West: E.T. (2011)
2005年 Best Male Video Kanye West: Jesus Walks, Version 2 (2004)

#グッチの歴史 Vol.5『History of GUCCI』グッチの黄金期を築いた伝説のデザイナー4人とその功績

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“#グッチの歴史 Vol.5”

グッチ創業から90年、もうあと数年で100周年を迎える老舗ブランドのグッチですが、さすがのグッチでも90年以上ずっと好調だったわけもなく、紆余曲折がありました。

グッチの創業、ブランドの拡大、グッチの暗黒期とも言われた時代から復活、新生グッチを作り上げた鬼才。グッチの歴史には特に絶対欠かせない4人のデザイナーを紹介します。

創業者グッチオグッチって?

グッチオには非常に多くの逸話が残されていますが、そのひとつに、イタリア訪問中のエリザベス2世が店を訪問した時、女王付の侍従が彼に「何か陛下にプレゼントを」と進言したので、鞄を女王に進呈しました。が、女王一行が去った後、報道陣がまだいるにもかかわらず「金も払わん乞食はもう来るな」と発言した、というものがあります。

このような過激な言動が目立ちますが、職人からは信頼されていたし、彼も職人を愛していましたた。その証拠にグッチには他の高級ブランドとは異なり、材料費さえ払えば職人が妻や娘、恋人に鞄を作ってもよい、という日がありました。(現在は消滅している)。

これは、グッチの製品が職人の家族にとってなかなか手の届きにくいものであったことから、グッチオが自発的に考え付いた職人の家族へのサービスでしょう。

そんな彼がいなかったらグッチは始まっていませんでした。10代のころにリフトボーイをしていた彼はセレブの優雅なスタイルに感銘を受けました。特にバッグや馬具製品の虜になったのです。

グッチオのプロフィール

生年月日1881年3月26日
出身地イタリア トスカーナ、フィレンツェ
know forビジネスマン ファッションデザイナー
創業グッチ(GUCCI)
死没1953年1月2日
死没地ウエストサセックス
配偶者アイダグッチ(Aida Gucci)1901-1953
ガブリエログッチ
子供 アルドグッチ
エンツォグッチ
グリマルダグッチ
ロドルフォグッチ
ウゴグッチ
バスコグッチ

革職人の父親の息子として生まれたグッチオは1898年17歳になり、ロンドンで一旗あげようと決心し、蒸気船の機関助手をしながらロンドンに渡りました。ロンドンでは、最高級ホテル、サヴォイ・ホテル(Savoy Hotel)にて、皿洗いの職を得ました。

その後、リフトボーイに出世し、そこでの仕事を通して貴族たちの立ち振る舞いや持ち物を観察しモノに対する考え方や美への感性を培い、ブランドビジネスに大いに役立てたと言われています。

さらにグッチオは感性のみならず「原価は何も意味を持たない。むしろ商品の値段が高ければ高いほどそれを所有することの価値も高くなる」ということも学びました。

1901年、グッチオは多くのことを学んだサヴォイホテルを離れ、生まれ故郷へ帰国します。帰国後、いくつかの商店で働いていましたが、1914年第一次世界大戦が始まると徴兵され一時国から離れます。

グッチオの功績

それはもちろん当たり前ですがグッチの創業でしょう。大戦後は1919年にフィレンツェに戻り、高級レザーグッズ店「フランツィ(Furantsui)」でレザーの扱い方を学びこの経験を活かし、1922年にフィレンツェ、パリネオ通りに自分の店舗を開き、1923年「グッチ」の店名を掲げたことが、今や多くの人から愛されるラグジュアリーブランドの誕生となりました。

当時、グッチが主に扱っていたのは、イギリスから輸入したカバンの販売と修理でした。修理によって壊れやすいところやどう作れば壊れにくいカバンが作れるかなどを研究することができ、丈夫で使いやすいカバンを作る術を学びました。

乗馬用具をモチーフに

リフトボーイをしていたころの乗馬用具からインスパイアされた皮革製品の製作がブランド創業2年での成功に繋がりました。

第二次世界大戦における素材の代替品

第二次世界大戦では皮革が統制品となったことで牛革が不足するが、代替品としてキャンバス地にコーティングを施した素材が人気を呼び寄せました。

大戦後では竹素材も代替品として使用され、シンプルなハンドバッグが生み出されました。現在となってはグッチの代表コレクションの一つとして「バンブーコレクション」が存在しています。

このような現代にも通用するデザインを残し、グッチというブランドの創業、人気の拡大をし1953年、グッチオグッチは72年の生涯に幕を閉じました。

2代目アルド・グッチとは?

グッチオ・グッチは子だくさんで妻の連れ子のウーゴを含めると6人もの子供がいました。その内でグッチに対して主要な仕事をするのは、アルド、ヴァスコ、ロドルフォの3人ですが、その中でも最も中心的な役割を果たすのが三男のアルドです。

グッチオの時代からすでに有名になっていたグッチなので、国内、海外の遠方からわざわざフィレンツェのグッチまで足を運ぶ顧客が多くいました。アルドはこうした海外顧客に対して、ただ待っているのではなくてこちらから仕掛けるべきだと考えており、海外への進出を積極的に行っていった人物です。 

アルドグッチのプロフィール

生年月日1905年5月26日
出身地イタリア トスカーナ、フィレンツェ
know forビジネスマン ファッションデザイナー
職業グッチショップス会長(1953-1986)
死没1990年1月19日
死没地アメリカ
グッチオグッチとアイーダカルヴェッリグッチ
配偶者オルウェンプライス、ブルナパロンボ
子供4人

海外への道を開拓

20歳から、アルドはグッチでフルタイムで働き始めました。 まずはイタリアの首都ローマでラグジュアリーブランドが立ち並ぶコンドッティ通りに店舗を展開したのです。

アルドはローマには世界中からセレブが訪れるようになるだろうと予見していました。なので、そうしたセレブの期待に沿うような店舗づくりにも多額の資金を注ぎ込み、ラグジュアリー仕様の店舗、そしてスタイルとカラーの調和がとれたグッチらしい製品というのをコンセプトにしたブランド戦略を展開してきました。

その勢いが顕著になり1951年にはロンドン、 53年のグッチオ死去の15日前にはニューヨーク、63年にはパリ、そして65年にはハリウッドスターのためにビバリーヒルズにも店舗を構えました。彼は初めてアメリカの土地に「Made in Italy」の旗を立てた人物でもあります。

ニューヨークはグッチの街

グッチの名前を一般にも広く浸透させたのは、ローヒールのモカシンによってというところは非常に大きいです。
アルドの一声ではじまった靴事業ですが、これが大ヒットでした。

アメリカ、特にニューヨークで大ヒットとなりニューヨークだけでも年間2万足以上が売れたということで、富裕層が中心であったグッチの顧客に若い女性なども含めた中間層にまで浸透させることに成功しました。

当時の大統領ジョン・F・ケネディからもアルドが初めての「駐米イタリア大使」と称され、MoMA(ニューヨーク近代美術館)にもモカシンが永久コレクションされるなどグッチの評価はアメリカで非常に高いものになっていきました。

この1960年代には、ニューヨークで単独で店舗を構えているイタリアブランドというのは、グッチとエミリオ・プッチしかなく「グッチ・プッチ」と呼ばれて親しまれていたほどです。 

1970年代に入ってもその勢いはとどまることを知らず、ニューヨーク5番街に新しい店舗をオープンし、翌年にもフィラデルフィア、シカゴ、サンフランシスコに店舗をオープンし、ニューヨークにも3店舗目をオープンしました。

1980年にもさらにニューヨーク5番街に新しい店舗をオープンし、これは1999年まで改装もされないほどのフラッグシップ店として名を馳せました。まさに「ニューヨークはグッチの街」と称されるほどになり、ニューヨーク5番街を歩く人々の意識をグッチに釘付けにしてしまうような凄さがあります。 

徹底したブランドイメージの構築

アルドのブランドイメージ作りは徹底していて、販売員の教育にまで指示を出していました。例えば、「何かお探しですか?」と聞いてはいけず、もっとお客様とのコミュニケーションを円滑にするために「おはようございます。」と声をかけさせていました。

また、製品の価格を言ってはいけないというルールも作りました。これは、値段を聞くような行為は下品な行動であるというのをお客様に暗に伝えるためです。なぜならグッチの顧客であれば価格を気にする必要もないはずですし、その水準に満たないお客であればお引取りを願うようにもしていたほどです。

他にも店舗経営としては棚を指でなぞって埃が指につくようではだめで、フランチャイズなら即契約打ち切りという厳しさです。こうしたアルドのブランドイメージづくりは、グッチにとってマイナスに働く要因をすべて取り除くための徹底したものでした。

ブランドアイコンの発案

しかし、アルドが行ったブランドのイメージ戦略はこれだけでは収まりません。彼はグッチのアイコンを作りました。

このGを合わせた”ダブルG”マーク、グッチオグッチのイニシャルなんですがこのマークを作ったのもアルドです。

1950年代にグッチは再び乗馬から着想を得て、鞍の腹帯に由来したトレードマーク「緑・赤・緑」(WEBラインと言われている)の織物を発案しました。

さまざまな転機

1972年はグッチにとってさまざまな転機がありました。これもアルドの功績でしょう。

香水への進出

まずひとつが、香水事業への進出です。グッチの顧客の大半が女性であることから、香水を出せば売れるとロドルフォとヴァスコの反対を押し切ってアルドがスタートした事業が「グッチ・パフューム・インターナショナル・リミテッド」です。

ここには2つの目的がありました。ひとつが革製品以外の主要事業を持つこと。もうひとつは、アルドの息子たちにビジネスに関わらせるためのちょうどよいビジネスをつくりたかったことです。

ある意味目的としては達成できているのですが、香水ビジネスは思いつきで成功するほど甘くはなく散々な結果となりました。今でこそグッチの香水というとネームバリューもあり人気の香水ですが、この時のグッチは香水に関してはまだまだ駆け出しのアマチュアだったのです。

時計への進出

ふたつめは、時計ビジネスの開始です。セヴェリンウンデルマンという時計セールスにグッチの名前のついた時計を売るライセンスを供与したことが始まりで、香水とは違い香水と違いプロと組んだ時計事業は大成功を収めました。

ウンデルマンは、高級腕時計といえばスイスと言われるほど高い技術力をもつスイスの時計メーカーに対して、その持ち前の豪腕を発揮し、製造、販売の仕組みを構築していき、ついには信頼の証となる時計展示会でのブースまで持っていたのです。

このおかげでグッチがスイスにおける初めてのファッションブランド時計となり、時計をグッチの主力製品とすることに大きく貢献しました。

日本への進出

ちょうど日本が高度経済成長のまっただ中でラグジュアリーブランドの多くが日本への進出を考えていた時期でした。日本の輸入業者が現地で店舗に列をなし大量の買い付けをすることがニュースにまでなった頃です。

当時のアルドは日本を軽視していましたが、こうした状況からビジネスチャンスを予見し、エルメスやフェラガモなども日本で初の代理店を務めた銀座の「サンモトヤマ」とフランチャイズ契約を結びました。この関係は2年後の香港進出にも活かされ、アジア市場の開拓に大きく貢献しました。 

アルドの海外進出は、こうしてヨーロッパからアメリカ、アジアと直営店、フランチャイズ店併せて60店舗を展開するまでになっています。

復活の立役者トムフォードとは

グッチが現在のようなハイブランドとしての地位を築いているのには、トムフォードの貢献というのが最も大きいと思います。 マウリツィオ・グッチの時代にクリエイティブディレクターとしてドーンメローが就任しましたが、その時にまだまだ若手で職のなかったトムフォードをグッチに引き入れました。

1980年代にグッチ家における財産問題などのさまざまなスキャンダルが発生したことにより、高級ブランドとしての地位が大幅に低下し、倒産の危機が迫っていました。グッチ一族が去った1年後の1994年にグッチの改革の貢献者でもあり、トムフォードをグッチに引き入れた張本人でもあるドーンメローがグッチを去ることになりました。

当然、メローの後任が必要になるのですが、この時に指名されたのがトムフォードなのです。まだまだフォードにグッチの未来すべてを託すというのは賭けの部分もありましたが、メローの推薦もあり、デザインに関してフォードと対立していたマウリツィオももういない、後にグッチの社長となるドメニコデソーレはフォードの才能にグッチの未来を賭けたのです。 

トムフォードのプロフィール

本名トーマスカーライルフォード
生年月日1961年8月27日
職業ファッションデザイナー、映画監督
配偶者リチャードバックリー
子供1人
ラベルグッチ(1990-2004)
イヴサンローラン(1999-2004)
トムフォード(2004-現在)

グッチのスタイルというのは、モダンでセクシーなグッチルックとなり、あと一歩で下品になるというギリギリのラインを攻め続けました。1960年~1970年代のグッチのスタイルがこのようなギリギリのラインだったので、それを現代風に再解釈し、ヒールはとことん高く、スカートはとことん短くといった具合に限界を探るような挑戦をしたのです。 

フォードスタイルの確立

デソーレはこれまでのクラシックなグッチのイメージから、フォードのファッション路線に賭けました。商品のみならず、広告やショーウインドウ、ショッピングバッグのデザインまですべてトムフォードの承諾が必要なほど権限を与えました。

この賭けにデソーレは勝ちました。旧来のバックパックをフォードが再デザインしたミニバックパックが飛ぶように売れ、その後のクロッグシューズと毎シーズン目玉になるようなアイテムを発表しました。

フォードのコレクションはこれまで高級ブランドとしては落ちぶれていたしていたグッチのイメージを一新し、「新しいカールラガーフェルド」とまで称されるほどでした。マドンナやケイトウインスレットといったスターまでもがフォードのデザインしたグッチを愛用したのです。

さらにフォードのデザインというのはこれまでのバラバラのデザイナーによってデザインされていたグッチとは違い、デザインとして一貫性があり、それがグッチスタイルの確立「フォードスタイル」の確立にもつながっていきました。

ファッション業界に与えた功績

革製品主体のラグジュアリーブランドであるグッチが、トレンド感満載のアパレル商品を発表し、ファッションショーにおける演出もまるでミュージカルやロックショーのようにとてもエキサイティングなものでした。非常にメリハリの効いたショーを展開するので、観客はその演出に魅了され、バイヤーからしても要点がまとまっているので、何を買えばいいのかがはっきり分かります。

こうした単なるファッションデザイナーとしてではなく、これまでのラグジュアリーブランドにはないビジネスの才覚も持ち合わせていたのがトムフォードというデザイナーの真骨頂なのです。グッチはフォードの活躍によって、ブランド価値を劇的に向上させました。

しかし、ラグジュアリーブランドを商業的な観点で捉えるという観点ではグッチの再建だけではなく、ラグジュアリーファッション業界全体に対しても大きな影響を与えた人物となったのではないでしょうか。 

 新生グッチを支える鬼才アレッサンドロミケーレとは

トムフォードが2004年に辞任してから11年間、グッチは3人のデザイナーに支えられてきました。そのグッチを更なる高みへと押し上げ、昨今のグッチの人気を押し上げた張本人が鬼才アレッサンドロミケーレになります。

アレッサンドロミケーレのプロフィール

生年月日1972年
出身地イタリア ローマ
職業ファッションデザイナー
受賞歴2015年国際ファッションデザイナーオブザイヤー賞
2016年国際ファッション・デザイナー・オブ・ザ・イヤー賞、 英国ファッション賞
2016年CFDA国際賞
グリーンアワード2017
ランクイン業界で最も影響力のあるトップ100人

ミケーレはトムフォード時代からグッチを支えてきた一人です。元々フェンディーのシニア・アクセサリーデザイナーだったミケーレはフェンディー退職後2002年にグッチに入社します。その才能をトムフォードが著しく買っていたのは有名な話ですね。

15年間進化し続けるグッチを見続けてきた人物ということです。2004年にはトムフォードと共に来日も果たしているミケーレは当時、グッチのアクセサリー全般のデザイナーだったようです。トムフォードとジャンニーニのデザインするグッチも最も近い場所で観ていたミケーレの新生グッチの今後は否が応でも期待が高まります。

世界観にセレブが歓喜

行き過ぎだと思うほどの斬新なデザインにいい意味でも悪い意味でもショックを受けた方も多いはずです。エレガントで色気のあるトムフォード、モダンでクラシカルなジャンニーニのデザインとはまるで違うハードなグッチがそこにはありました。

過剰な程の刺繍を施されたスカジャンやジージャン、そしてルーズフィットな革ジャンと言う表現がぴったりと来るライダースジャケット。ボトムはジージャン同様に刺繍の施された古着ライクのデニムや80年代のストリートシーンを連想させるブリーチデニム。新生グッチはラグジュアリーアメカジで目の肥えたファッショニスタに勝負を挑んできました。

グッチ流ジャポニズムが世界中の的

ラグジュアリーアメカジをベースにファッション界に殴り込みをかけたミケーレによるグッチのアメカジベースの他にもう一つ注目されるべきポイントは「ジャポニズム」です。新生グッチはジャポニズムとアメカジの融合とも言われています。

スカジャンやジージャンに施された刺繍はどことなくオリエンタルな雰囲気が漂うものばかりでシルクのガウンはまるで着物を連想させるようなデザインのモノ。ジャポニズムとアメカジを融合させた過剰なデザインはいわばエクストリーム感は今までのグッチとは異なる雰囲気です。

ジャポニズムとアメカジの融合が「ジャパニーズバッドボーイスタイル」へとつながり、「グッチ流チンピラスタイル」が完成しました。このチンピラスタイルはグッチから派生し今やトレンドとなっています。2017年の春夏にハードアメカジとチンピラスタイルがキーワードとして挙げられてるのは間違いなくグッチに影響でしょう。

ブランドロゴTムーブメントの火付け役

グッチが提案するエレガントでラグジュアリーなアメカジスタイルはコレクション全体の評価もかなり高いのですがアイテム一点一点がかなり注目されています。ハイブランドはアイテムが注目される事も勿論多いのですがコレクションの流れやショーが評価される点が非常に多いです。

つまり全体の流れからアイテムに目が行くと言った感じなのです。トムフォードグッチやジャンニーニのグッチはランウェイ評価が非常に高かったのです。新生グッチでは全体の流れよりもアイテムが注目されている点も面白いところです。中でもセレブレティーが夢中になっているアイテムがロゴTです。

80年代90年代のブランドロゴをプリントしたアイテムやTシャツが大ブレークしました。ロゴアイテムの流れはスタッフブルゾンから来ているという説もあります。 今回ブランドロゴが堂々と入ったTシャツがグッチからリリースされました。

本来ブランドロゴの入ったアイテムはあまりトレンディーとはされてこなかったアイテムです。しかし勝負師でもあるミケーレはあえてランウェイでブランドロゴTシャツを展開しました。彼が選んだロゴTシャツはクラシカルグッチロゴのTシャツでこのブランドロゴTがミケーレの作るエレガントアメカジに非常にマッチしました。

やりすぎたアメカジと80年代の空気感を表現し、80年代90年代にファッションの洗礼を受けたセレブには懐かしく若きファッショニスタには新鮮に映る80年代のスタイルからのロゴTシャツは今バカ売れしています。やりすぎ感といい意味での分かりやすさ、そしてカジュアルな雰囲気でブランドロゴTシャツムーブメントを巻き起こしています。

ムーブメントが起こったワケ

グッチのロゴTシャツがブレークしている背景にはハイブランドのストリート化やカジュアル化が大きく影響しています。さらに大きな理由はSNSと言われています。一般のファッショニスタもハリウッドスター並みに世界に情報を瞬時に発信できる時代、そして流行は今やSNSからとも言われています。

ブランドロゴの大きく入ったTシャツは分かりやすく、どこのブランドを着ているのか瞬時に分かります。「ブランド名を見ればどこで買えるかが分かる」この連鎖もロゴTシャツが世界中でブレークしている理由に思います。