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後編:「メゾン マルジェラ」と孤高の天才デザイナー「マルタン・マルジェラ)」の2000年~映画「We Margiela」公開まで

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”History of Maison Margela”

「マルタン マルジェラ(Martin Margiela)」の誕生から1999年まではいかがでしたか?

メゾン・マルタン・マルジェラ”(Maison Martin Margiela)の魅力の真髄は、そのつかみどころのなさにあるのだと思います。だからこそこのレーベルに関連するニュースには世界中の誰もが飛びつくのです。 「姿が見えないデザイナー」とまで称されたことがある「マルタン・マルジェラ」、ファッション界において多大なる影響力を放ち続ける「Maison Martin Margiela」。その2000年から現在までの軌跡、そしてその裏側を深く探ります。

マルタンマルジェラについて

名前 マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)
生年月日
1957年4月9日
出身ベルギーのヘンク(ラフシモンズとは同郷)
学歴 アントウェルペン王立芸術学院
設立組織 Maison Margiela
instagram@maisonmargiela
Instagram投稿ハッシュタグ #maisonmargiela #martinmargiela #マルタンマルジェラ
公式サイト メゾン マルジェラ 公式ストア
意外な友人カニエ・ウエスト(Kanye west)

2000年:東京初出店

「メゾン・マルタン・マルジェラ”(Maison Martin Margiela)」初の店舗が2000年に東京で展開されて以来、東京をはじめとして日本各地に店舗展開されていいきます。東京にある主な店舗としては、恵比寿や表参道などに旗艦店があるほか、「コムデギャルソン」の創業者「川久保玲」が手掛けるDover Street Market Ginza(ドーバーストリートマーケットギンザ)、伊勢丹新宿店、GINZA SIX(ギンザシックス)、銀座三越、などにも店舗があります。また、ユナイテッドアローズ、ドゥーズィエムクラス、バーニーズニューヨーク、エディションなどの多くのセレクトショップの一部店舗で、MAISON MARGIELA(メゾン マルジェラ)の商品を扱っています。東京以外では、仙台や福岡、広島、大分、大阪、名古屋、金沢など、日本各地に10店舗以上の直営店があったり、デパート内の店舗や一部商品を扱うセレクトショップもたくさんあります。

2000Spring:”オーバーサイズ”のはじまり

トレンチコート、メンズシャツ、ボンバージャケット、スリップドレスのようなワードローブのステープルにあふれたプロポーションが148、150、または200パーセント拡大されたコレクションでした。 2000年代に突入した最初のコレクションでマルジェラはすべての服をXXXLに拡大し、これが今の流行りでもある”オーバーサイズ”の出発点となったと思います。

ちなみにXXXLはイタリアサイズで言うサイズ78相当らしいです(笑)デカすぎます(笑) しかし、マルジェラがこのコレクションで焦点を当てたのはサイジングだけではありませんでした。 慎重に配置された価格シールと電子セキュリティタグが、ファッションのマーケティングと販売に対してのマルジェラから業界に対してのアンチテーゼだったのかも知れません。

コレクションギャラリー

2000Autumn

「La mode du XXL」 というテーマ2000年の秋から翌年の春にかけてマルジェラが特に固執したものです。 が、ショー後半では比較的タイトめなファッションもありました。個人的にはLook1が好きな感じではあります(笑)

2001年:ラディカルファッション展

via wiki

マルタンマルジェラは2001年にロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館で「ラディカルファッション」展を行いました。

2001Spring

このコレクションでモデルは、ルーブル美術館の花びらが散らばった床の周りを歩きました。マルジェラは1991年に靴下を縫い合わせたセーターを作りましたが、今回のショーでも靴下を使った服を作りました。さらにこれは2015年のサイモン・ポルト・ジャックムスの秋のコレクションの影響を与えたかもしれないコレクションにもなります。

2002年:店舗激増のきっかけ

OTBというレンツォ・ロッソのグループ企業の出資、製造、店舗開発などまで支援を受けるようになります。ここからグローバルで店舗数が増え、メゾンは2002年以降の6年で約5倍に成長したといいます。しかしこの契約がのちに大きな歪みを生んでしまったのかもしれません。。。あくまでも噂ですが。。。

2002Spring

2002Autumn

2003年: Hermesのクリエイティブディレクター退任

マルタン・マルジェラは2003年に エルメスのクリエイティブディレクターを退任しました。1997年から退任の間にエルメスのプレタポルテを12コレクション発表しました。マルタン・マルジェラが退任した後にエルメスのクリエイティブディレクターを引き継いだのはなんと過去にデザインアシスタントとして師事を仰いだジャン=ポール・ゴルチエだったのです。このジャン=ポール・ゴルチエとマルタン・マルジェラの2回目の出逢いは運命だったのでしょうか。。。

2003Autumn

2004年:新本部の引っ越し

 2004年12月に、メゾンマルタンマルジェラは、パリの11区にある18世紀の修道院に新本部を引っ越しました。本部の家具と内装は白く塗られ、古風な外観になっています。白い環境に加えて、従業員全員が伝統的な「ブラウスブランシュ」、白いコートを着用しているそうです。

2006S/S

ショーモデルの女性たちは、奇妙なファッションで建築現場の中でポーズをとっています。一人一人が自分のトロッコに乗せられ、黒子によって電車の線路に沿ってゆっくりと押されました。 マルタン・マルジェラの頭の中で衣服の構造を「溶かす」ことについての考えとして始まったコレクションでした。 そして、テーマを強調するために、融解の過程をイメージしたアイスキューブで作られたネックレスとブレスレットという特別なジュエリーがありました。

2006A/W

このシーズンでは家庭用の家具が派生した服のショーを発表しました。ジャケットやズボン、スカート、ハイヒールのサンダル、そしてベルトにまで変身を遂げたのはソファー 、 70年代の革張りの椅子、敷物、カーテン、シートベルト付きのカーシートのクレトン製スリップカバーでした。

2007S/S

マルジェラは今シーズンのコンセプトを「1970年代のサンフランシスコ」と主張しました。ゴールデンゲートの夕焼けのイメージがプリントされたTシャツ、裏がスタッドで覆われているジャケット、2枚のパッチワークのズボンが目立ちました。

2007A/W

マルジェラはファッションの意識を高め、忘れ去られた人々、無視された人々、疲れ果てた人々に新たな命を吹き込みました。このコレクション全体を表現したのは、薄手のコットンシャツにLurex社の糸、タキシードのズボンの上にパイピング、そしてきらびやかなアクセサリーのゴールドとシルバーのディテール でした。このコレクションはファッション業界でのマルジェラの地位を強調するのに役立ちました。

例えば、過去の作品を再構築する彼のレプリカプロジェクトは、今シーズンモスクワからのビーバーコート(1990)、オレゴン州ポートランドからのツイードトレンチコート(1969)、そしてデトロイトからの建設用ブーツ(90年代半ば)を含み、このコレクションのメインとなるような存在感を放っていました!

2008年:アーカイブ展、ジュエリーコレクション

メゾン・マルタン マルジェラとしての20周年(1989年春夏-2009年春夏)のアーカイブ展をトウキョウ店で開催しました。

また、1924年設立のイタリアのジュエリーブランド「ダミアーニ」とのコラボレーションにて、ファインジュエリーコレクションを発表しました。その時のコンセプトは「XXLサイズ」でした。

2008S/S

今回はショールームでのプレゼンテーションを選びました。5人の写真家にこのシーズンの解釈を依頼し、ショールームを白壁のギャラリースペースとして再構成し展示会を開催しました。

2008A/W

このコレクションは攻撃的でした。ベルト、リング、ゴム製のボディピースのバックルとしてさまざまな形で現れた有刺鉄線のモチーフから制作されました。プリントはチェーンリンクフェンスをイメージされています。アクセサリー類は、トラックによって押しつぶされたように見えた宝石を使用しました。 そして100足限定で生産されたブーツは頭蓋骨のモチーフでスプレー塗装されました。パンツのワックス仕上げでさえ、ある種の暴力を示唆していたのでしょうか。。。

2009年:デザインチームの存在公表

2009年10月、マルタン・マルジェラは「Maison Martin Margiela」のクリエイティブディレクターを辞任し たことが発表されました。 その理由についてさまざまな推測や噂が出回りました 噂によれば、「マルジェラは新しいディーゼル所有の商業的動機に反対し、メゾンはその真正性と独占権を犠牲にして世界的に認知されたブランドになることに賛成している」が有力とのことでしたが本当のことはだれにもわからないのです。

そしてマルジェラに代わる人が誰ができるのかという問題が話題になり、「ラフシモンズ」、「ハイダーアッカーマン」が有力候補だとこれまたうわさが流れました。しかし同年12月、 Maison Martin Margielaには後任者が選任されないことが発表されました。マルジェラが去った後も匿名のデザインチームがデザインを続けましたが当時の最高経営責任者(CEO)のジョバンニ・パンゲッティは「前衛的で挑発的であり続けたいが、新しいクリエイティブディレクターはいない。挑戦しています。間違いを犯すことになるでしょうが、最も重要なことはそこから学ぶことです」 と言いました。

やはり天才デザイナーのマルタン・マルジェラのセンスは近くで一緒にデザインしていたチームのだれも追随を許さないもので彼が去った後、マルジェラの代わりを務めることができるデザイナーはいなかったようです。。。

2009S/S

2010A/W

2011S/S

2011A/W

過去数シーズンにわたり行ってきたプレゼンテーションのシーズンの後、メゾンマルタンマルジェラは、メンズコレクションのためのショーを行いました。 スーツはピンストライプのウールと一緒にコードとベルベットでまとめられ、そしてタートルネックのセーターを着ていました。アウターウェア、特にギャバジントレンチとフェルトのグレーのウール狩猟用ジャケットの要素を組み合わせたコートなどの混合素材で作られた作品が特に際立っていました。

2012年:H&Mとのコラボレーション

11月15日に発売されたH&Mコラボ。1992年の秋のシーズンに触発されたというように1992年の秋シーズンを彷彿とさせるラインナップでした。ちなみに僕も終電から並びました(笑)

2012S/S

2012A/W

2013年:カニエ・ウエストのツアー衣装を手掛ける!

カニエ・ウエスト氏、話題があるところにこの人ありというぐらい話題作りが上手い?というよりもどこにでも貪欲にアプローチするあたりがアメリカンドリームを手に入れるにはそれぐらいのアグレッシブさがなければいけないという事を体現しているスーパースターの一人である彼。カニエ軍団のメンツも豪華で一番弟子には世界のルイ・ヴィトンのスーパーデザイナーであり、オフホワイト(OFF WHITE)のデザイナー:ヴァージルアブロー。奥さんは世界一のインスタ女王のキム・カーダシアン。挙げればキリがありませんが。彼には人を惹きつけ尚且つ魅了する術と天性があるのでしょう。

つい先日ご紹介したイケアとオフホワイト(OFF WHITE)のコラボではヴァージルアブローがテレアポしてる陰で真っ先にデザイン画を持ってイケアに猛アプローチして見事に無視、、スルーされる( ;∀;)という涙ぐましい努力と攻めの姿勢を崩さないカニエ氏。

“We didn’t pay attention to what is being said about him in the press, we just focused on what could be done with him,” Maison Martin Margiela told us. “We have wanted to work with Kanye West for a very long time, ever since he became a close friend of the Maison; supporting us a lot and coming to our shows. We like his music and the vision he had for the tour.”


「私たちは報道の中で彼について言われていることに注意を払わなかった、我々はただ彼と一緒にできることに焦点を合わせた」とMaison Martin Margielaは私たちに言った。
「彼がメゾンの親友になってからずっと、カニエウェストと一緒に仕事をしたいと思っていました。私たちをたくさんサポートし、ショーにも参加しています。私たちは彼の音楽とツアーに対するビジョンを気に入っています。」

via vogue.co.uk

そんなカニエ・ウエストはマルタンマルジェラともコラボしており2013年のツアー衣装では全面的にマルジェラのチームが制作しておりこの時のインタビューでもマルジェラはカニエ・ウエストのことを”親友”と言っており。表に出ないマルタンマルジェラとは極端に対照的に見える彼らですが。磁石のように対極過ぎてひかれあうものがあるのでしょうか。前のシーズンのコレクションでも彼らはともに仕事をしています。

2013S/S

2013A/W

2014年:ジョンガリアーノがクリエイティブディレクターに

via hypebeast

同年の10月にジョンガリアーノが「メゾン マルタン マルジェラ」のクリエイティブディレクターになりました。1985年に自身のブランド、ジョン ガリアーノ(John Galliano)をスタートし、1995年7月にジバンシィ(Givenchy’s)の1996年10月にはディオール(Dior)のクリエイティブ・ディレクターに就任しました。メゾン マルタン マルジェラの抱えるスタッフ インターナショナルを傘下にもつ、ホールディングカンパニーOTBのプレジデント、レンツォ・ロッソは、次のようにコメントしました。

「マルジェラに新たなカリスマを迎える準備が整いました。ジョン・ガリアーノは最高の、疑う余地のない才能の持ち主です。唯一無二で類稀なるメゾンのクチュリエは、世界のファッションに常に挑み、革新してきました。私は、彼にしか創造できない「ファッション・ドリーム」のため、彼が再びこの世界に戻ってきたことを嬉しく思います。ここを新たなホームだと思ってほしいです。」と。

このジョンガリアーノのクリエイティブディレクター就任のニュースは各国のマルジェラ好きやバイヤーやファッションジャーナリストを驚きと衝撃を与えたと思います。

2014S/S

2014A/W

2015年:ブランド名が「Maison Margela」に変更

この年の1月14日に「メゾン マルタン マルジェラ」 が、創業者のファーストネームである「マルタン」をブランド名から外し、新たに「メゾン マルジェラ」に変更すると発表しました。 名称変更は、ジョンガリアーノによる初の「アーティザナル」コレクション発表と重なったが、担当者はブランド名変更は「ブランド全体に関することであり、アーティザナル・コレクションだけに適用されるものではない」と語りました。

2015S/S

2015A/W

2016S/S

2016A/W

2017S/S

https://www.youtube.com/watch?v=vXhskR0rIJI

2018A/W

2019S/S

映画「We Margiela」について

あまりここでネタバレみたいなことはしたくないので気になる方は直接見に行ってみてください。見に行ってください。と言ったんですけど正直な話、マルジェラあんまり知らないって人や今日昨日マルジェラのこと知ったとかこの記事の前編後編見て気になったとかだったらあまり楽しめないと思います。

誰もが楽しめる映画にはなってないのかなって印象を受けました(笑)例えば、某クモ男の映画ってクモ男のこと知らなかっても楽しめる映画だとおもうんです。けどこの映画はまた一味違うというかみんながみんな楽しむための映画じゃないのかなって感じです(笑)この時のシーズンのコレクションがどうだった。アーティザナルはこうだ。とかっていう話は少ししかなかったです。

前編でも言ったと思うんですけど題名にもなってる「We」が重要なんです。記者会見でもFAXで「私たち」って答え方するんですけどその意味だったりとか。。。あとはジェニーメイデンスとの話がメインなのかなって思います。謎に包まれたマルジェラを周りにいた人視点で迫れるって感じです。僕的には面白かったですし、酷評してるってわけじゃないんですけど。。。難しいですね(笑)

総括

さて、マルジェラの誕生から2019年の最新まではどうでしたか?皆さんもマルジェラの世界に引き込まれたのではないでしょうか。彼の魅力は言葉で言い表すことができないものだと思います。その魅力を感じて「ラフシモンズ」はデザイナーの道に進みましたし、彼の周りの人間も彼の魅力の虜になったのだと思います。

そして、虜になった人間は僕を含めてこの世界中に存在しています。ラフシモンズもそうですが天才といわれる人は人を巻き込む不思議な力を持っているのでしょうね。
僕は、マルジェラの帰りを待ちたいと思っています。

※ここからは個人的な感想になります※

今、流行の中でマルジェラの店頭にはダッドシューズが並んでいて、正直「んー、、、」って感じになります。マルジェラの魅力として僕自身マルジェラの好きだったところは「時代に捉われない服作り」って部分だったんです。僕が好きだったマルジェラはもう終わりなのかっていう悲しい気持ちにもなります。

それは逆にマルタン・マルジェラが作るブランド「メゾン マルジェラ」が好きだったということでもあります。そんな方も少なからずいらっしゃると思います。映画を見て改めてそう思いました。別に今の「メゾン マルジェラ」が嫌いってわけではないです。

劇中で「自分がブスだと思ってる子もマルジェラを着ると自信を持てた。そういう人を何百人も救ってきた」ってセリフがあって真理をつかれた気がしました。「ファッションは自己満足、自分のための自分だけの鎧」ってことなんじゃないかと思います。マルジェラが伝えたかったことはこういうことなんだなっていう僕の個人的な解釈ですが。。。

おまけ

「ANDAMファッションアワード」初代グランプリ受賞者のマルタン・マルジェラが2019年度の審査を遠隔で行うことが発表されました。これは何かの前触れなのかなって思ったのですが、、、あまり大きな声では言えませんが近い将来、マルジェラが表舞台に戻ってくるとのうわさが。。。

後編:天才デザイナー「ラフ・シモンズ」2000年会社閉鎖、彼女との別れ、、からのジルサンダー、ディオール、アディダス、カルバンクラインを去るまでの軌跡

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”History of Raf Simons”

ラフシモンズの歴史:前編はご覧になりましたか?
同郷のマルタン・マルジェラに影響を受けてファッションデザイナーになった過去を持つラフシモンズ。2000年以降は「adidas by Raf Simons」を筆頭にスニーカーシーンにも影響を及ぼすラフシモンズのスニーカーも多く登場しました。さらにはラフシモンズの輝かしい活躍もあり、過去にラフシモンズが手掛けたアーカイブも再燃し、価値も見直されます。そんなラフシモンズの2000年~現在までの活躍を見ていきましょう!!

ラフ・シモンズ(Raf Simons)プロフィール

名前ラフ・ジャン・シモンズ( Raf Jan Simons )
生年月日1968年1月12日(わたし前日の11日生まれです^^運をおすそ分けしてほしいです^^)
設立ブランド ラフ・シモンズ(Raf Simons)
設立1995年
出身ベルギー・ヘンク(マルタン・マルジェラとは同郷です。)
公式サイト
rafsimons.com
Instagram@Rafsimons
Instagram投稿ハッシュタグ#rafsimons #ラフシモンズ #ラフシモンズアディダス #ラフシモンズスタンスミス
経歴 2018年12月21日:カルバンクライン デザイナー退任を公表

2000年:ブランド活動の休止

2000年の3月にラフシモンズは2000年A/Wのコレクションを最後にサバティカル休暇を得るために自社を閉鎖させます。 その後ラフシモンズはオーストラリアにあるウィーン応用芸術大学のファッション学科で5年間勤めました。

このウィーン応用芸術大学ファッション学科の専攻プログラムには、「今をときめく教授(Professor auf Zeit)」として著名なファッションデザイナーを招待するモーデクラッセという授業があり 、1980年には当時フランスのファッションブランド「クロエ」のデザイナーだったカール・ラガーフェルド客員教授として3年間着任しました。

それ以降、国際的に著名な活躍をしているデザイナーたちが教壇に立っています。ほかにもジルサンダー、ヴィヴィアンウエストウッド、ヘルムートラング、アントワープ出身のアバンギャルドデザイナーのヴェロニク・ブランキーノなどが教壇に立っています。ラフシモンズもこの大学の教壇に立った名だたるデザイナーの中の一人ということです。

2001年:ブランド「RafSimons」の再開

2001年の秋、ラフシモンズは1年間のサバティカル休暇を経てファッションの世界に復帰しました。2000年3月に、彼はファッションシーンのトップをひた走りながらもその世界から去りました。
再開した「RafSimons」は新しいパートナーシップにより、デザインチームの規模を縮小し、共同作業者とより親密に仕事をすることができました。

2001Autumn「Riot Riot Riot期」

https://www.instagram.com/p/BOHpqtwAiN4/

2001年秋の都市型急進派のハイパースタイルコレクションが完成しました。これは、ラフシモンズの初期の作品の細くて一味違う形の拒絶を表しています。特大サイズのもの(ボンバージャケット、フード、縞模様のタートルネック、ズボン)の大部分を構成し、モデルは衣服で完全に覆われておりほとんどのモデルはスカーフで顔を包んでいます。
ウィーンのフリーマーケットで、ウクライナやルーマニアから来た若者たちを見たラフシモンズはこの若者たちインスピレーションを得てこのコレクションに反映させました。このアイコンのコレクションを「Riot Riot Riot期」や「暴動期」、「テロリスト期」と別の名前で呼ばれています。
不器用に層を成したシルエットは、当時のメンズファッションを再定義しました。ラフシモンズの超スリムなスーツからの脱却を意味していたのでしょうか。。。
上のインスタのようにカニエウエストが着用しプレミアで価格が大高騰し$47,000もの価格で取引されるものもありました。

このコレクションはファッションのみに注目するのは間違っています。
パリの1区での優雅な環境のコレクションに慣れているバイヤーやファッションジャーナリストを含むファッション関係者たちに対してラフシモンズは、このショーを大量の煙と閃光で満たされた冷たく湿った倉庫で行いました。それはもしかしたらある種、華やかなランウェイでのコレクションに対するアンチテーゼだったのかもしれません。そしてバイヤーやファッションジャーナリストはこのコレクション会場にいい気分はしなかったんじゃないかと思います。
しかし、このショーは単に形についてではありませんでした。ソニックユースとジョイディビジョンのコンサートのためのチラシ、クリスティアーネF.の映画のポスター、写真、そしてことわざの断片が衣服に貼られました。その中には、Manic Street Preachersというバンドの写真と、1995年にギタリストのRichey Edwardsが姿を消したことによる警察の報道コメントまでもが含まれていました。これは、バンドの本国であるウェールズで軽微な論争を呼びました。

コレクションギャラリー

2002S/S

ショーは上の動画のように真っ白のモデルがたいまつを掲げて登場するところから始まります。

2002AW「VIRGINIA CREEPER期 」

https://www.instagram.com/p/BtKU8pqlUYX/

コレクションテーマは「自然の二元性」。自然が持つ「美しさ」と「脅威」。その両面を表現したコレクションです。
シーズン名のVIRGINIA CREEPERとは「アメリカヅタ」の英名です。ブルーベリーのような美しい実をつけますがその実には毒があります。そういった自然の二面性を服を通して表現しています。
また、森林のブラウンや夜の黒、スレートグレイや葉の緑色など自然関連のテーマに由来したカラーリングを使用しているのも特徴です。
コレクション発表も植物が生い茂る場所で開催され、自然の壮大さを一層感じさせるコレクションになっています 。
シンプルでわかりやすいデザインでもコレクションテーマに基づいたデザインだとまた見え方も変わったりしますね。

2003年:スイステキスタイルアワード受賞

新たな才能発掘を目的とした「スイス・テキスタイル・アワード」は、2000年にスタートしました受賞者には賞金として10万ユーロ(約1120万円)が贈られます。当時は経営難だったラフシモンズは「この賞のお陰で乗り切れた」と語りました。
ラフシモンズが受賞した6年後の2009年にはアレキサンダー・ワンが受賞したりと歴史こそあたらしいもののデザイナー成功の登竜門として有名です

2003S/S「消費者期」

ラフシモンズは2003年春の消費者文化に関する論を発表しました。「consumed(消費)」と題された主流の黒のコレクションは、ファッションの「買う、買う、買う」マントラに対する反論ではありませんでした。それはラフシモンズのやり方です。PlayStation 2、Canon、そして「Sun Bank」の企業ロゴと並んで、メンバーシップや抵抗などの言葉がTシャツに印刷されました。ショーノートには、ブランドは次のように書いています。


「これは黙示録的な終わりをもたらすかもしれないと提案する人もいれば、他の人、特に若い世代は新しい現実的で柔軟性のあるペルソナを創るための手がかりとしてこの現実を利用するのです。」

RafSimons2002SpringCollection ShowNote

それらの変化する個性は、巧妙なグラフィックを超えた服を着てランウェイを歩きました。ハーネスのようなベストはキャンプ風のポーチとタバコを入れるための特別なコンパートメントを持っており、ジャケットとズボンは実用​​的な感じで大きくカットされました。爆撃機のジャケットには、ぶら下がっているロープ、指輪、ひもが非常にたくさん付けられました。このコレクションは 芸術家アシュリービッカートンへのリスペクトが捧げられ、彼の自画像を含む、写真がプリントされた白い爆撃機ジャケットは、芸術家ピーターデポッターと共同で作られました。ほかにもモデルの首のまわりでぶら下がった黒い塗られたソーダ缶は印象的でした。

コレクションギャラリー

2003A/W「closer期」

via LN-CC
https://www.instagram.com/p/BQWqKTjAo8X/

2004S/S「Waves期(宗教期)」

ドイツの小説家ヘルマン・ヘッセの小説「シッダールタ」をテーマにしたシーズン。シッダールタとは「釈迦」という意味です。なので「宗教期」と言われています。
プリントのグラフィックやストーンネックレスなど雰囲気の怪しい感じがなんとも言えませんね。

2004A/W

2005年: ジル・サンダーのメンズ&レディースのクリエイティブ・デザイナーに就任

2005年6月に、ラフシモンズはジルサンダーのクリエイティブディレクターに任命されました。今まではレディースラインのみの展開でしたがラフシモンズはジルサンダーのメンズコレクションもデザインしはじめ、ラフシモンズが退任した現在でもジルサンダーにはメンズラインが残っています。ジルサンダーに在籍している間、ラフシモンズはブランドの審美性を厳格なミニマリズムから移動させ、レディースウェアの普及ラインである「ジルサンダーネイビー」の創設によりその商業的魅力を拡大させました。

2005S/S

ラフシモンズは間違いなく紳士服の世界に変化をもたらしています。そして、このコレクションは彼のビジョンの力と独創性を強調するコレクションといっても過言ではないです。
急進的なパンク的なアイコンとスローガンに夢中になったラフシモンズは、黒、白、および淡いグレーの色合いに合わせたパレットを使用して、彼は贅沢なスーツとコートで彼の調整技術を表現しました。ぶら下がっているあぶみのズボンはシルエットをさらにスリムにしました。トリプルプリーツの革のズボン、じょうごの首のトップ、そして天使の羽のように浮かんだ巨大な白いコートは柔らかさを表現しました。ラフシモンズの新鮮なように感じられた素晴らしいショーを締めくくりました。
2005年以来、「Raf Simons」のファッション美学は変わりました。元アリーナオムプラスマガジンの編集者ジョアン・ファニアスは、「キーターニングポイントは、A/W(Waves)でした。純粋に形と形についての服になった。」と述べています。

コレクションギャラリー

2005A/W「 History of the world(ポルターガイスト)期 」

ラフシモンズは自らのショーを”私の世界の歴史”と呼んだが、ラフシモンズは彼の最新のコレクションで過去を再訪することをしませんでした。もっと正確に言うと、彼は昨シーズンについてだけ振り返りました。それは明らかにラフシモンズの新しい世界への出発点でしょう。
それから、秋にはシモンズは彼の鋭い未来的な感性を広げましました。そして、それは急進的な新しい形を受け入れます。プレゼンテーション自体は長年繰り返していましたが、それはゆったりとまとまったウエストラインやだぶだぶのズボンのトリミングジャケットのシルエットに注目を集めるという要点のみに絞った結果なのでしょう。
これらの紙袋のウエストの下では、幅の広い革製のコルセットベルトがポイントをさらに高めました。切り取られたフグとトレンチコートのハイブリッドと、切り落とされたトレンチのように見えるガンメタのダブルブレストジャケットも同様です。多くの服は軍服または制服のエッセンスを含み、1つの服は黒いズボン、黒いシャツ、黒いネクタイを組み合わせたものでした。特に彼のジャカードニットの肩と肘のパッドは確かにラフシモンズのデザインの本質的に挑戦的な性質を反映していました。そして、巨大な二重襟付きのシリングリングコートは、男らしさがありました。

コレクションギャラリー

2006年: 春夏から「Raf by Raf Simons」をスタート

この年の6月から「Raf by Raf Simons」が発売されました。さらに彼の経歴の最初の10年についての本「Raf Simons:Redux」をリリースします。出版物とともに、デザイナーの経歴を振り返ってイタリアのフィレンツェで開催されたPitti Immagine Uomoトレードショーで、ラフシモンズの作品の展示とアウトドアファッションショーも行われました。

2006Spring

ラフシモンズは、イタリアで最も有名な公園として広く知られているフィレンツェのボーボリ庭園での本、ビデオ回顧展、そして彼の最新コレクションのショーで、ビジネスにおける最初の10年間を披露しました。その舞台の古典的な壮大さは、ラフシモンズのコレクションであるイカロスのテーマをすべての彼の英雄的な切り離しで当てはめ、そしてほとんどの服は風通し、動き、そして服が空を飛んでいるような軽量感を持っていたといいます。例えばシャツやTシャツは、文字通り格子を介して開かれました。トップスは、彼が見せていたフルズボンに合わせて根本的かつ流動的に特大サイズになり、巨大なフローティングテールピース付きのフルレングスコートは、これまで以上に羽のように見えました。リネンは、ジャケットとトップスをリネンメッシュにして、洋服を通り抜ける空気のアイデアを大きく広げ、仕立てに異なる種類の構造を選びました。
ラフシモンズの家族の背景を反映して、色は軍用パレット内のようにガンメタル、スレート、黒と空軍を連想させる青、ならびに彼の最愛の鳩灰色をメインに使いました。そして、それらの巨大なズボンは昨シーズンから帯をなくして来ましたが、それは侍(剣闘士のサンダルのように見える靴を身に着けている)を簡単にイメージさせました。

コレクションギャラリー

2006Autumn

パリの近代を記念するミッテラン大統領の記念碑であるラ・デファンスの屋上は、デザイナーが過去に探し求めてきたような場所でした。舞台裏では、非常に集中していて、黒、白、そしてグレーのパレットに蒸留されたショーの後、彼は「私は本当にファッションを見せたかった!」と怒鳴ったといいます。
リブ編みのニットウェアのオープニングサルボから巨大なパッド入りジャケットへのダッフルコートなどのアイテムを発表しました。
ボリュームがこのコレクションの鍵でした。ラフシモンズは過去数シーズンにわたり、サムライが履くような袴のようなサイズのズボンを試していましたが、この秋のシーズンはズボンを全部スリムにして強調しました。首はファンネルカラーや喉周りに集中したフードに特に焦点を当てました。これは若いモデルの顔をロマンチックに彼らの若さを際立たせる効果をもたらしました。

コレクションギャラリー

2007Spring

Raf Simonsは「楽しい気分だよ」と彼は舞台裏で言いました。狭いシルエット、ノースリーブのトップスなど、多くの要素を取り入れたショーでした。
フロートコートの浮遊量が、David LynchのDuneのアストラルパイオニアが身に付けていたものと似ていることからも明らかです。しかし、この先見的で切実なデザイン心を最も明確に示したのは、ショートパンツに対するラフシモンズの強迫観念ともとれる思想でした。ショートパンツは常に男子生徒に関連付けられます。そしてそれはユニフォームのように見えたスーツで、ラフシモンズが始めたことです。それからショーツはラップ、ウエストバンド、そしてプリーツを含むスタイルステートメントに変貌しました。
ひとつの壮観な要素を取り上げてそれを解体して再構築することは、ラフシモンズが好んで取り組みます。そして、どういうわけか一貫して魅力的なものにすることができるのです。これが天才デザイナーと言われるワケなのかもしれませんね。
この秋、このショーのステージングも魅力の一部でした。

コレクションギャラリー

2007A/W

若いイギリス人彫刻家、コンラッド・ショークロスによる作品は、催眠術をかけてラフ・シモンズのショースペースの中心で回転しました。そしてショーの後、ラフシモンズは「手は未来の形を作り出すのに重要である」と述べました。

今回のデザイナーの目的のひとつは、伝統的なものをより現代的にすることでした。ツイードコートが縫い目の下にジッパーで開いてナイロンの下敷きを現しました(おそらくそれはラフシモンズがしばしばアウターウェアの中で天使たちを呼び起こしたためであるが、折り畳まれた翼を示唆した)。リブ付きのブルーグレーのカーディガンコートが真っ黒なライクラのロールネックを包みました。そしてすばらしいウールのジャケットは、まるで宇宙のように艶をかけられていました。

https://www.youtube.com/watch?v=3JCBk8F4zHw

2008年:東京と大阪に出店、多くのコラボレーション

2008年にはアメリカのアーティスト「スターリング・ルビー」、「ロジャー・ヒオールズ」とのコラボレーションにより「Raf Simons」の独立型店舗が東京と大阪にオープンしました。
さらに同年、2008年にはイギリスのブランド「フレッドペリー」、アメリカのカジュアルバッグブランド「イーストパック」、「リンダファロー」と共同で制作したサングラスも発表しました。

2008S/S

彼のインスピレーションは バックパックを持っている海外旅行者の部族、その好奇心、エネルギー、そしてオープンマインドでした。従来のボリュームとプロポーションは廃止されました。Tシャツは腿の中央に落ち、セーターは膝に落ち、袖にはさまれたひも、ズボン、そしてズボンの脚は新しいシルエットを生み出しました。ショーツ(バックパッカーのシグネチャーアイテム)は対照的なファブリックの2層に再構成されました。同様に、バックパッカーのハイキングサンダルは、モンドリアンによってデザインされたかもしれないカラーブロックされたブーツとして再調整されました。
色合いの強いハイテク織物がテーマを反映しています。そして主なアクセサリーは衣装とカラーコーディネートされた巨大なバックパックでした。

2008A/W

「アース」は実際にラフシモンズ本人が使った言葉です。それは、地層のように見えるように織られたパターンと、灰色の濃い色調をアクセントにしたオレンジに、ウールスーツのジャケットに適用されました。炎からの鳳凰のように、同じ強烈な色合いが灰色の裾から燃えるような肩まで上向きに整えた別のジャケットに組み込まれました。
腰のまわりに束ねられ、しわにされたジャケット、ワイヤード・シャットダウンを持つ別のジャケット、あるいはMark Rothkoの絵のように見えたセーターもコレクションの一部です。

コレクションギャラリー

2009:asicsとのコラボレーション

意外と知られていないこのコラボ。日本発のスポーツブランドのアシックスとラフシモンズのコラボレーションが2009年にありました。その時のスニーカーはラフシモンズのスニーカー図鑑にて掲載しているので興味ある方は見に行ってみてください!

2009Spring

「すべてに亀裂がある、それは光が入る方法です。」ニューヨークの芸術家クリストファーウールのスタイルを使用して、ラフシモンズは彼が最新のショーを上演した教育機関の中庭でその言葉をステンシルにかけました。彼はまた、繊細なフリンジのように色のついた糸がついているように、上に刺繍しました。コーエンとウールだけでなく、ラフシモンズはロバート・ライマンを心に留めていました。「彼ら全員物事のわずかな進化に人生を捧げるアーティスト」。それは細部へのこだわりの注意を促す感性であり、ラフシモンズはぴったり合っています。
彼はタキシード、そしてオールインワンを残して袖と足を切り取った。それから彼はチョッキ、ジャケットを加え、そして最後にスーツ自体に戻って、この基本的なバックアップを作りました。それは厳密なデザインにおけるまるで催眠術、強迫運動でした。ラフシモンズ自身が言ったように、今シーズンのメンズコレクションのランウェイを支配してきたのは、「反パジャマ」いわゆる超現実的な服装の対立性でした。
同様に魅了されたのは、服の質感に取り組む努力でした。手作りの紙のように強く押されたような生地は実際に刺繍されました。ツイードのように見えたものもも同様でした。そして、ラフシモンズが昨シーズンに衝撃的に手掛けた刺繍のデグラデ効果は、濃い塊のフィラメントがゆっくりと暗くなってから体を照らすようにゆっくりと溶けたスーツで再構築されました。

コレクションギャラリー

2010S/S

https://www.youtube.com/watch?v=bsOEl503KGY

2010A/W

2011年: 「Raf by Raf Simons」終了と「RafSimons1995」の展開

2011年には、「Raf by Raf Simons」が「Raf Simons 1995」に置き換えられました。これは、ラフシモンズの初期コレクションの要素を組み込んだ拡散ラインになります。さらに「Raf Simons1995」は毛布やクッションといった家庭用品も扱うラインとなりました。

2011S/S

ラフシモンズが初めて見たファッションショーは1991年のマルタンマルジェラの3回目のコレクションでした。ラフシモンズはとても感動し、泣いてしまいました。その感動から彼はファッションデザイナーになりたいと決心しました。
そして彼にとってパリの15周年記念ショーが今夜その感動をしたマルタンマルジェラの3回目のコレクションのリスペクトを含めたオマージュとして発表しました。
彼が袖のような超流動性を取り除いた仕立ては、ラフシモンズの合図です。白、濃い色、そしてスポーツに焦点を当てたコレクションを行いました。生地の水たまりで終わったズボンは古いショーからのものであり、そして彼が展開した写真のコラージュは別の長年の共同制作者、アントワープの芸術家/作家ピータード・ポッターの作品でした。
モデルのキャスティングですらマルタンマルジェラへの尊敬が影響してました。それがこのコレクションの基本となります。
ラフシモンズがどれだけマルジェラを尊敬していたのかがこのコレクションでわかります。天才に尊敬された天才デザイナーマルタンマルジェラのすごさも同時に感じることができるコレクションです。

2012A/W

このコレクションは軽くコートを背負う、継ぎ目をなくして肩を丸くする、またはジャケットを箱詰めにした、シルエットの中のオートクチュールに対するデザイナーの継続的な魅力についての提案がありました。ラフシモンズが最初から話していた考えは、ラテックストップを包むラクダコートで明白でした。同様に、細長いニット、コート、そして特大のチュニックを着色した鮮やかな色合い。オレンジ色の一例は背中をトグルで閉じ、裏側はダッフルです。ダッフルコートとパーカーはこのコレクションの礎石でした。

2012年: ジル・サンダーのクリエイティブ・デザイナー退任、クリスチャン・ディオールのクリエイティブ・ディレクター就任

ジルサンダーのクリエイティブディレクター退任後の同年2012年4月、ラフシモンズがジョン・ガリアーノに代わってDiorのクリエイティブディレクターに就任することが発表されました。しかしながら、ベルギーのデザイナー「クリス・ヴァン・アッシュ」がDior hommeのクリエイティブディレクターとして残ったため、ラフシモンズはメンズウェアコレクションのデザインはしませんでした。
オートクチュール2012年秋冬のラフシモンズ最初のコレクションは、クリスチャンディオールの有名なシルエットで遊ぶことによって1950年代に焦点を合わせた Aライン、Hラインとバージャケットは好評でした。
ラフシモンズは、「90年代に感じたものに感情を取り戻すことを目指している」と語たりました。
2014年、フレデリック・チェンは、ディオールの最初のクチュールコレクションを制作したときのラフ・シモンズについて ドキュメンタリーを書いて監督しました 。それが「Diorと私」という映画です。

2012S/S

彼が2004年に彼らに上演したショーは彼の最高の一つとして記憶に残っています。今夜、歴史は繰り返されました。 かつて銀行の信用リヨンの本部だった建物のエスカレーターでモデルが上下しています。ショーへの機械的な恩恵は、ラフシモンズの作品にとって重要な一連の均一性を強調していました。
このコレクションの発表で最も印象的な要素は、万華鏡のような模様にハサミで飾られた格子縞の視覚的ダイナミズムです。

2012A/W

2013年: アディダスとのコラボレーション

2013年、アディダスとのコラボレーションライン「adidas by Raf Simons」を発表 しました。以降、スニーカーヘッズを魅了し続け、さらにはスニーカーシーンに大旋風を巻き起こすスニーカーも誕生させます。さすがはラフシモンズ、常に先鋭的で最先端のコレクションを披露してきた天才だと思わされます。

2013S/S

2013A/W

via Supreme

2014年: Raf Simons x Sterling Ruby

via RSVP Gallery

ラフ・シモンズ自身が以前より尊敬していると語っていたスターリングルビーとの念願の共同ブランド。RAF SIMONS / STERLING RUBY LIMITED EDITION。この画像、ぱっと見。トラヴィス・スコットだとは気づかない変顔?不意打ちなワンショットです。COOLなアイテムより真っ先にトラヴィス・スコットの顔に目が行きますが。間違いなく恰好良いコラボブランドです。

Raf Simons x Sterling Ruby ショーのワンショットです。セットはルビーが仕掛けた見ごたえのある2014のショー。このトレンチも今となっては超レアなアイテムです。現在のリセール市場であれば300万を超える価格ぐらいで取引されるであろう希少性です。

2014S/S

2014A/W

2015年: ディオールのクリエイティブ・ディレクターを退任

ラフシモンズは2012年4月からの3年半、Christian Diorのクリエイティブ・ディレクターを務め2015年10月22日に辞任しました。ある声明の中で、ラフシモンズは「自分のブランドや自分の仕事以外に私を駆り立てる情熱を含む、私の人生の他の興味に焦点を当てることが完全に等しく平等に基づく決断である」と述べました。
ラフシモンズとDiorの別れは多くの人にショックを与えましたが友好的な別れだったと報告されました。

2015S/S

2015A/W

2016年: カルバン・クラインのチーフ・クリエイティブ・オフィサーに就任

2016年8月2日、カルバンクラインはチーフクリエイティブオフィサーとしてラフシモンズの任命を発表しました。
ラフシモンズは、カルバン・クラインコレクション、カルバン・クライン プラチナム、カルバン・クライン、カルバン・クラインジーンズ、カルバン・クラインアンダーウェア、カルバン・クラインホームの各ブランドにおいて、カルバン・クラインの創造的な戦略をグローバルにリードしています。ラフシモンズは、チーフクリエイティブオフィサーとしての役割の一環として、デザイン、グローバルマーケティングおよびコミュニケーション、そしてビジュアルクリエイティブサービスのすべての側面を監督します。また同時にラフシモンズがNYでショーを開催することを明言しました。
これはカルバン・クラインがNYに拠点を置いているのが理由だといわれています。
カルバン・クライン社のCEO、スティーブ・シフマフは、次のように述べています。この決定がカルバン・クラインブランドを後押しし、その将来に大きな影響を与えると確信しています。ラフシモンズの並外れた貢献は、今日見ているように、ファッションを形作り、現代化し、そして世界をリードするライフスタイルブランドにするでしょう。」
ラフシモンズがかかわった最初のコレクションは、2017年秋シーズンにデビューしました。

2016S/S

2016A/W

2017S/S

2017A/W

2018:カルバン・クラインのチーフ・クリエイティブ・オフィサー退任

2018年12月、Calvin KleinとSimonsは、Calvin Kleinが「Simonsとは異なる新しいブランドの方向性を決定した」という創造的ビジョンの後、「友好的に別れを告げる方法である」と発表しました。ラフ・シモンズ退任の裏側、そしてラフがカルバンクラインの新しいビジョンをあのアンディ・ウォーホルの作品をアイデアにイメージしていたことなど下の記事に詳しくご紹介しております!

2018S/S

2018A/W

2019年:2つのコラボレーションの発表

まだ2019年も始まって間もないですが「adidas by Raf Simons」ではブーツの外側にはアールヌーボー調の額縁に収めた無名の女性の白黒写真をフィーチャーした女性パンクロッカーのパッチを貼り付けたデトロイト・ブーツが、「EASTPACK」ではニューヨークに拠点を移したラフシモンズが、ニューヨークとその70年代、80年代のパンクロック文化から受けたインスピレーションが反映されたバッグが販売されました。

2019S/S

おまけ

著名人にもラフシモンズのファンはたくさんいます。リアーナをはじめ、ケンドリックラマー、トラビススコット、フューチャー、エイサップロッキーなど様々なミュージシャンから人気があります。
特にA$AP MOBとして知られている人気のニューヨークを拠点としたラッパーグループは、2017年にクァボ、プレイボーイ・カルティ、リル・ウジ・ヴァート、フランク・オーシャンをフューチャーした”Raf”という曲をリリースしました。

このPVの構図、実は2005AWのコレクション映像のパロディなのです。
さらに最初のたいまつを持っているシーンも2002SS「テロ期」のパロディだったり。
当時を知っている方も、ASAPからラフシモンズのアーカイブを知る方も楽しめる素晴らしいパロディですね。

一連のファッションアイコンの着用の裏にはフィクサーの存在が!?

https://www.instagram.com/p/Bt1Hw8MFFi2/

それがDaivd Casavant(デビッド・カサヴァント)という人物。
弱冠27歳の彼がファッションアイコンたちに衣装提供をしているのです。
デビッド・カサヴァントは10代の頃からRAF SIMONSやHelmut Langなどのアーカイブ品を収集しはじめ、そのコレクションは1000点以上にものぼるといいます。

総括

ラフシモンズの2000年から現在までの活躍いかがでしたでしょうか?
常にファッション業界のトップをひた走るラフシモンズは多くのトップメゾンにも多大な影響を与えています。この記事を見れば過去のアーカイブの再燃もうなずけます。
マルタンマルジェラから影響を受けてラフシモンズがデザイナーの道を進んだように彼のこれまでのファッション業界にもたらした偉大な功績を考えれば彼に影響を受けてまた新たなデザイナーも出てくる可能性は極めて高いと思われます。今後のラフシモンズの活躍はもちろんですが新たなデザイナーや業界自体の動きにも目が離せないです。

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前編:ファッション史に最も影響を与えたブランド「Maison Margiela(メゾン マルジェラ)」の誕生から1999年を遡る。

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” History of Maison Margiela ”

マルタン・マルジェラに関してですと多すぎてどこから話すべきなのかわからないですね(笑)デザインのコンセプトとしては「反モード(アンチモード)」を掲げ、流行に反したボディーラインのファッションなどを提案しています。特に軍服をアレンジした作品に代表されるような「ポぺリズム」と呼ばれるスタイルも有名で知られているのではないでしょうか。 またそのコンセプトのデザインは「ファッション界に最も影響を与えたメゾン」として称えられあのラフシモンズの歴史にも関わってきます。

ブランド設立時はコレクション等に顔を出していたのですが、だんだんとショーの後も舞台裏に残るようになりました。彼の顔は、公には知られていません。彼の経歴を通して、1997年にマルシオ・マデイラという写真家によって撮られた唯一の写真が存在しますが、公式にはマルジェラ本人だと確認されていません。 それ以降は新しい写真が出てこないので、重病説や死亡説が流れるほどです。 彼のキャリアを通して、マルジェラは一度もインタビューをしたことがなく、 メディアへの連絡はすべてFAXで行い、回答は「私は」ではなく「私たちは」といった言い回しを使い、創作活動が複数名で行われていることを強調しています。自分一人ではなく、グループワークにこだわっているマルタン・マルジェラらしい表現の仕方だといえるでしょう。

ちなみに、【ファッション・ナウ−「i-D」が選ぶ世界で最も重要なデザイナー150人】の一人にマルタン・マルジェラも選ばれているのですが、彼の人物写真はなく、空席の椅子の写真が写っています。それほどデザイナー非公開を徹底したマルタン・マルジェラ。彼の歴史に迫っていきます。また後編では表舞台にでないマルタン・マルジェラと非対称的で意外な親友のカニエ・ウエストとの関係についてもご紹介していきます。

マルタンマルジェラについて

名前 マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)
生年月日
1957年4月9日
出身ベルギーのヘンク(ラフシモンズとは同郷)
学歴 アントウェルペン王立芸術学院
設立組織 Maison Margiela
instagram@maisonmargiela
Instagram投稿ハッシュタグ #maisonmargiela #martinmargiela #マルタンマルジェラ
公式サイト メゾン マルジェラ 公式ストア
意外な友人カニエ・ウエスト(Kanye west)

1957年4月9日:マルタン・マルジェラ誕生

マルタン・マルジェラは1959年、ベルギーのニーベルト郊外のヘンクという町で生まれました。この町は工業都市ながら自然や歴史、芸術の盛んな人口約6万人ほどの小さな町です。盛んな芸術や歴史がマルタン・マルジェラの創造の源になっているのでしょう。
そして、今メンズウエア界でトップクラスの影響力のラフシモンズもこの町の出身なのは知らない方も多いと思います。

1977年:アントワープ王立芸術アカデミー入学

1977年にマルタン・マルジェラはアントワープ王立芸術アカデミーに入学しました。
彼は同校出身のアバンギャルドなファッション集団「アントワープSIX」のメンバー によく間違えられます。が本来は 「ドリスヴァンノッテン」「アンドゥムルメステール」「ダーク・ヴァンセーヌ」「ダーク・ビッケンバーグ」「ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク」「マリナ・イー」 の6名です。
マルタン・マルジェラをはじめとし、「アントワープSIX」を含むそのころの年代のベルギーのデザイナーは日本の「コムデギャルソン」のデザイナーの川久保玲をはじめとする前衛的なデザイナーが提案する分解的なファッションに触発されており間違えられることもあると思います。
しかし「アントワープSIX」は1980年~1981年間の卒業した新世代のファッションデザイナーのことを言い、マルタン・マルジェラはその前年の1989年に卒業しています。

卒業以降のマルタン・マルジェラ

卒業以降、彼はフリーランスのファッションデザイナーとしてイタリア・ミラノに渡ります。
そのころから彼は意図的にライニングや縫い目、衣服構造を明らかにする脱構築スタイルを提案しています。
そして1983年にゴールデンスプール賞を獲得します。

ゴールデンスプール賞を獲得した1984S/Sのデザイン via FASHIONHEADLINE


『たとえば、1900年代の改革期、労働者の制服、初期の女剣士たちのスタイル。個々の想像上の世界を組み合わせながら、”全体”を創造していくのが、私は好きですね 』


マルタン・マルジェラ

これはゴールデンスプール賞を獲得したときのインタビューで「作品のインスピレーションはどこから?」という質問に答えたマルタン・マルジェラ本人のコメントです。
88年パリコレに正式デビュー以降マルタン・マルジェラは『メゾン』としてメディアに連絡するため、「私」ではなく「私たち」と表現しています。
そもそもインタビュー自体が珍しくさらに「私」と言ってるインタビューは非常に珍しいです。

1984年:ジャンポールゴルチエとの出会い

via FASHIONHEADLINE

1984年、初めてパリで見たジャン=ポール・ゴルチエのショーに感銘を受け、デザインアシスタントとして1987年までの3年間のキャリアを積み、のちにデザイナーとして活躍するきっかけとなります。
当時のゴルチエはパリの中では奇抜なコレクションを発表しており、ジェンダー、ストリートカルチャー、そしてエスニックドレスに対する彼の挑戦的なコレクションはシーンの注目を独占しました。
マルジェラがゴルチエの右手として経験を積んだことは、彼自身の批判的思考と鋭い感性やデザイナーとして活躍する経験を得るきっかけとなったでしょう。

1988年:自身のブランド「 MAISON MARTIN MARGIELA 」設立


1987年、ジャン=ポール・ゴルチエの元を去った翌年1988年にブリュッセルの小売業者である ジェニー・メイレンスと共に自身名を冠するブランド「MAISON MARTIN MARGIELA(メゾン・マルタン・マルジェラ)」を立ち上げ、パリの目印も何もないスペースに一番最初のショップをオープンし、アントワープの12レオポルド通りに小さなスタジオを構えます。

1989年:ブランド初のコレクション発表

1989年から1994年の5年間に発表された最初の10コレクションに、その後の仕事に読み取れるマルタン・マルジェラのマニフェストがこめられています。「デストロイ」と形容されるように服を解体した服作りをし、裏を表に出し、未完のままで、、、さらに巨大あるいは窮屈なほどに小さいという極端な寸法の服作りや、立体ではなくまっ平らな2Dのような服というように、コンセプチュアルなアプローチでこの5年の間、服の概念を覆し続けてきたマルタンマルジェラ。
衝撃的なクリエーションは驚きであってもチープでも下品でもなく、エレガンスとエモーションがあり、時にユーモアも感じられます。
毎シーズン、テーマを変えて発表されるのが通常ですが、マルタン・マルジェラはひとつのテーマを複数シーズンかけて追求、展開します。また、毎回ショー会場に選ぶのは、使われていない駐車場や地下鉄駅など、当時のクリエイターの誰も思いつかないような場所、という風に発表する服以外にもファッション界自体にに斬新な提案をしてきました。

1989S/S

自身のブランド「メゾン・マルタン・マルジェラ」を立ち上げた1988年10月23日にブランド初のコレクション1989S/Sをパリで発表します。
華やかなファッションショーが繰り広げられていた80年代にマルタン・マルジェラは華やかとは言い辛いアングラ的な会場でスタートしました。素晴らしいテーラーリングのセンスに加え、タトゥーに見えるトロンプ・ロイユ(騙し絵)、「タビ」シューズ、表に出したタック、18世紀のネクタイにインスパイアされた髪飾りを首や手首に、、、などその後のコレクションで繰り返し使われるアイデアが詰まっています。
他にもスレンダーなロングシルエットの洋服を身に纏ったモデルが、マスクで顔を覆い隠し、赤いペイントを施され白いランウェイに色を付けながら歩いていく斬新なコレクションを発表します。コレクションの最後、マルジェラは顔出しをしませんでした。
「ここにあなたが見に来たのはスーパーモデルでも私自身でもない。私のデザインした服である。」 と観客に視覚で訴えかけたマルジェラのデビュー作です。
初のコレクションは「反モード(アンチモード)」を掲げ、「脱構築( デコンストラクション )」や全ての常識を覆すものであったことから「デストロイ・コレクション」と称され、高級志向の世の中を覆す「ポペリズム」と言われる90年代のトレンドを構築しました。
その後90年代に流行する、グランジファッションの先駆的コレクションとも評されました。

1989₋1990A/W

自身ブランドの2シーズン目となるこのコレクションは割れた皿をワイヤーで繋いだベスト、肩がすぼまったジャケット、1940年代の舞台衣装にインスパイアされたスパンコール刺繍が施されたニットなどが印象的です。
モデルたちの爪はシルバーで黒のリボンを指輪のように5本の指に巻いています。

1990S/S

200パーセントに拡大した服が登場した1999年の春夏はネットやプラスチックに覆われていて決して動かないドレープを作り上げました。前のシーズンでは首輪でしたが今シーズンはペイントされた革の拘束ブレスレットが登場します。
1980年代を好まなかったマルタンは1990年代の到来を盛り上げるためなのかモデルの身体に「9」や「タビ」ブーツのヒール部分に「90」とペイントしました。
さらにショーに近隣の子供たちを招待し、モデルたちが歩くコレクション会場を子供たちが走り回る演出を加え話題になりました。

コレクションギャラリー

1990-1991A/W

前シーズンに登場したドレープは動かないように固定し、「タビ」シューズは使用せずに釣り用の膝上ブーツをコレクションに加えました。写真右端のパンクニットはマルタンの母が箒の柄で編んだものです。

1991年:メゾン初のアーティザナルラインの誕生

1991S/Sのコレクション発表とほぼ同時期にメゾン内に「アーティザナル」 設けられました 。
マルジェラには現在13ものラインが存在します。詳しい話は別の記事にしますので今回はアーティザナルラインの話です。
アーティザナルラインは13ラインの中で、最も値段が高く、また最も製作に時間を要するアイテムが展開されているのが「0」「0 10」を冠する「アーティザナル」と呼ばれる解体再構築ラインのことを言います。
このアーティザナルラインはマルジェラの中でも特別な意味を持つラインで、マルジェラのデザインや創作活動の根幹といっても過言ではないでしょう。
このラインではマルジェラチームが世界中を旅して収集したアンティークやヴィンテージをひとつひとつ解体し、それらの構成要素を丹念に検討、研究して、マルジェラのエッセンスを加え一着の衣服に仕上げた作品を展開しています。 一着を作るのにとてつもない時間がかかるので、現在は既製服での展開はなく、オートクチュール(オーダーメイド)での展開のみとなっています。

1991S/S

このシーズン、モデルを務めた女性の年齢はバラバラでした。そのモデルの髪にはバラの花弁が散りばめられました。
1950年代のパーティードレスを洗いにかけサイズが小さいのでフロントをカットして羽織りにしてリサイクル使用しました。ペンダントトップは1720年代のプロイセンの僧侶によってつくられた日時計のレプリカです。

1991-1992A/W

メゾン・マルタン・マルジェラのアトリエ内でこのコレクションは発表されました。ショー形式ではなく会場に立っているモデルたちが服の説明を行うという形式の珍しいコレクションでした。2シーズン前の「タビ」シューズがサボになって登場し、内側のリボンをウエストで絞ると背中が平らなシルエットになるギミックが加えられています。
右端のセーターはミリタリーソックスを縫い合わせカーキにペイントした「メゾン・マルタン・マルジェラ」のアーティザナナルラインのセーターです。

1992S/S

1960年代から閉鎖されている地下鉄駅でショーが開催されました。体型もさまざまな素人のモデルが自分たちで髪を結ってコレクションに出演しました。モデル全員が目のわきに2粒のクリスタルを手は赤紫に染められている。
マルジェラはもともとスカートは好まないがこのコレクションでは古いスカーフをエプロンスカートに変形しました。
蚕の市で見つけたままのようにスカーフにはシワが付けられており、モデルたちの身体には身に着けているスカーフのモチーフがボディペインティングされています。

1992-1993A/W

救世軍の倉庫でのショーは、チャリティー目的での販売用に購入されストックされた家具がゲストの椅子代わりになり、楽隊のファンファーレの音にのせて赤い髪のモデルたちが歩きました。モデルによっては同じ服を着た自分の子供と一緒に出演するモデルもいた。
1970年代の革のコートをトランスフォームさせたドレスのほかに、裏地用のアセテートで作られたスカートなどが発表されました。

1993S/S

地方の閉鎖された劇場が持っていたルネッサンスから18世紀ごろにインスパイアされた舞台衣装をオークションで入手しました。その舞台衣装の状態はひどく、トランスフォーム、修繕され白と黒の色分けが行われました。
ほかにもチコート風のスカート、ギャロンのトリミングされたジャケット、首周りにペンダントのように縛られて吊されている、またはテープで貼られている緑の小枝など。。。
モンマルトル墓地を挟んで午後8時30分に白のコレクションと黒のコレクションの2つのショーを別の会場で開催しました。この前代未聞の試みには世界各国のバイヤーやファッションジャーナリストを困惑させたことでしょう(笑)

コレクションギャラリー

1994年:レプリカラインの誕生とコレクション形式の改革

彼は伝統的なランウェイの形式に疑問を抱きました。マルジェラは1994年のシーズンを店頭に並ぶ前にコレクションをバイヤーやファッションジャーナリストたちに見せることを拒否しました。しかし、プレゼンテーションにはマルジェラらしくひねりを加えました。
そしてこの年のA/Wに発表され、一世を風靡した「エイズ」Tシャツは、以降毎シーズン浸食が登場し売り上げの一部はフランスのチャリティー団体「AIDES」に寄付されています。

1994年S/S

ブランド10回目のコレクションでは、 驚いたことにデビューから1993〜94秋冬コレクションの中からセレクションされたピースの復刻という回顧コレクションで、モード史上例をみないものでした。モード界の今までの仕組みに一石を投じる試みでもあり、また過去のコレクションを買いそびれた顧客やファンの希望に応えるものだったそうです。プレゼンテーションのモデルたちの腕や首などには、紹介する服が発表されたシーズンが黒くスタンプされています。
好みの過去のコレクションを4~5ルック着用した年齢、職業、国籍の異なる7名の女性たちを各人が希望した場所でマルジェラ自身が撮影し8ミリフィルムで紹介した。映写中にコメンテーターを務めたのもマルジェラ本人。小さなグループに分けられたバイヤーやファッションジャーナリストを相手に数回セッションが行われました。
1940年代の4着のプリントドレスをパッチワークしてつくられたドレスや、1970年代のムートンから作られたブルゾンが印象的なコレクションでしょう。

1994₋1995A/W

ニューヨークのストア前にて。コレクションの発表を行うモデルたち。 via harpersbazaar

5つのグループからなるこのコレクションは1999年までこの方式でのコレクション発表をマルジェラは続けました。

グループ2ではマルジェラが以前から実施しているように昔の服のレプリカ。古い服を復刻した「レプリカ」ラインがここで生まれ、以降この後もシーズンごとに発表されるようになりました。
左側は生まれ故郷のベルギーで1940年代末に作られたスーツのリプルダクション。右が同じくベルギーで作られた1970年代に作られたメンズスーツのリプるダクション。いずれも当時のままのプロポーションを忠実に再現しており「レプリカ」はこのように復刻の元となった服の時代や用途などを右の写真のようにラベルに明記しています。


グループ3では1960、70年代の人形の服をプロポーションを変えずに人間の大きさにリサイズしてものでスナップやファスナーは巨大化し、新しいプロポーションのニットやブルゾンを提案しました。

1995年S/S

スリップドレス、オーダーメイドのチェックスーツ、ぱりっとした白いストラップレスのトップス、まとまったボディスのあるロマンチックなナイトドレスが印象的なコレクション。
もしかするとこのころから翌年に起こる事態の予兆があったのかもと想像させられます。

コレクションギャラリー

1995₋1996A/W

フェイスマスク以外にこのショーを際立たせたのは、マルジェラの色の使い方でした。ホットピンク、ガーネット、ラベンダー、フロアレングスのドレスから、ケープ、メカニックのジャンプスーツまで、紺と黒が上手く混ざり合っています。多くのルックはヘアトリムベルトで髪が結ばれていました。見方にもよりますが、全体的に鋭い雰囲気で「救世軍の気分」と呼ばれるようになりました。
フィナーレはマスクされていないモデルと気球を特色にしました。風船だけでなく花火や星型の杖など、陽気で祝い、子供らしいタッチだったでしょう。

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1996年:ミニマリストへの変異

ブランド設立当初から「デストロイ」と形容されていたマルジェラのコレクションですがこの時から「ミニマリスト」と呼ばれるようになりました。
どのような変化があったのか見ていこうと思います。

1996S/S

マルジェラと親しいカメラマン4名が撮影した写真を服にトロンプロイユしました。
過去にプリントのスカーフを使用することはあったがコレクションのためにプリントをクリエイトしたのはこれが初めてです 。 透明な梱包テープで靴の足を固定したモデルが組み立てられたテーブルで作られたワインボトルが並ぶキャットウォークを歩いていると、ポンポンを振るうチアリーダーが一緒に踊り歩きます。モデルはニット、ストライプ、そしてスパンコールのトランペットの写真プリントがされた服を披露します。そのうちのいくつかは2012年に「メゾンマルタンマルジェラ」がH&Mとコラボレートしたときのインスパイア元になりました。

1996Autumn

マスクは半塗装の顔に置き換えられ、そしてはしごにされたナイロンのストッキングはブランドのアイコンとなっていた「タビ」ブーツの上に着用されました。今シーズンのスタイリングは、ズボンは広く、ベルトはさらに広く、そして手袋は袖のように倍増するほど伸びたものでした。

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1997年:エルメスのクリエイティブディレクターに

1990年代半ばに大手メゾンブランドが一斉にクリエイティブディレクターを変更する動きがありました。
マルジェラ自身も1997年~2003年まで自身のメゾン「メゾン・マルタン・マルジェラ」と並行して「エルメス」のクリエイティブディレクターとしてレディースのプレタポルテを12コレクション発表しました。
「エルメス」の長く続く伝統的な技法を継承しながらも無駄と思われる記事は取り除きミニマルにシェープした彼らしいデザインを提案していました。
そんな大役を任されながら、同年1997年にコンテンポラリーラインにあたる「ライン6」後の「MM6」を設立と輝かしい活躍の一年となりました。

1997年コレクション

1997S/Sと1997-1998A/Wのコレクションはメーカー名だがマネキン人形の代名詞である「ストックマン」をテーマに服作りの工程を服作りに活用しました。 マルジェラの考えるファッションデザインの基は解剖と再建でした。
マルジェラのリネントップは番号が付けられていて、そして文字が書かれていました。一番下に印刷されているのは「セミクチュール」という言葉で、衣服の製作に関わっている匿名の誰かを想像させます。

1997Autumn

このショーでは、レピュブリック広場にある3つのミニ会場の間を白いバスで模型が移動しました。このコレクションには、前シーズンの洋裁制服のトップスの新たな試みと、衣料品製造の素材とプロセスが含​​まれていました。
型紙で作られたジャケット、目に見える飾り付けのあるステッチ、文字通り部分的に一緒に固定されたレイヤードルックがありました。片腕と非対称の衣服は、中途半端であるという印象を与えましたが今までのモードに対するアンチテーゼの提唱なのではないでしょうか。

コレクションギャラリー

1998:ギャルソンとの関係とライン10の発表

「ライン6」の発表の翌年、1998S/S、創設者のマルタン・マルジェラは影響を受けた日本の代表的なファッションデザイナー、「川久保玲」のブランド「コムデギャルソン」とコラボレーションします。
また、自身のブランド「メゾン・マルタン・マルジェラ」では「ライン10」として知られるメンズコレクションを展開、同時期からコレクションでのカレンダータグの使用も開始しました。

1998S/S

前シーズンの服の型紙にインスパイアを受け、2次元の平面服が生まれました。
白衣の男性がオークションのようにハンガーに衣服をかけ、ショーに招待された観客に 「身に着けていないとき、これらの部分は完全に平らです」と汲み取らせました。モデルの衣服を示すビデオも再生されました。プロポーションに魅了された1990年代、マルジェラは大人サイズに拡大された人形のワードローブを再現しました。このシーズンでの課題は、ジオメトリ、例えば立体ではないときに完全に平らになるような二次元の衣服の作り方でした。

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1998Autumn

マルジェラは服のすべてにこだわっていました。このシーズンの服がどのように作られたか、それらがどのような形をとったか、そして販売された方法。彼の焦点は、上映された女性ではなく、衣服にあり、そして彼は同年春のシーズンから2年連続してライブモデルなしで上映しました。1996Springでは白衣の男性でしたが1996Autumnではスタイリストのジョンハウによるマリオネットが登場しました。このコレクションの最も印象的な作品はマルジェラのシグネチャーパゴダスリーブでプラスチックで包まれたルックスでした。

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1999Spring

マルジェラがレーベルを立ち上げてから10年後、彼のSpring ’99ショーは最高のヒットコレクションとなりました。トロンプロイユのプリントは、1996Springに展示されたもの、人形の服は1994Autumnのコレクション、ストックマンのマネキンのトップは1997Springに飾られたものを参照しています。また、1950年代のバラエティに富んだスポーティーなパンツフロントがエプロンとして着用されていました。

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前編まとめ

衣服の再構築・再定義、ショーのスタイルなどマルジェラのやってきた手法は、多くの人々に影響を与え、ファッションの歴史に最も大きな影響を与えたデザイナーの1つと言われる所以です。
マルタン・マルジェラの誕生から1999年まではいかがですか?

アンチテーゼを認めさせる圧倒的才覚

ブランド設立初期から行ってきた新たな試みは当時、決して簡単に受け入れられるようなものではなかったと思います。衣服に対する解体・再構築・再定義はだれがやっても称賛されたものではなく天才デザイナー「マルタン・マルジェラ」だからこそ称えられ後世に影響を与えたのでしょう。

天才の周りには天才が

マルタン・マルジェラと同郷で彼に触発された天才デザイナーの一人「ラフシモンズ」や同校出身の「アントワープSIX」と呼ばれる同世代の天才デザイナーたち。
彼の周りには多くの天才デザイナーが「天才」だといわれる以前から存在し、刺激しあっていたことでしょう。