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ラフシモンズ×オズウィーゴ『ダッドスニーカーを履きこなせ!』海外セレブ、有名人のコーデから人気をチェック!!

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”Outfits of RS Ozweego”

リリースのたびにスニーカーヘッズをも狂喜乱舞させてきたラフシモンズのスニーカー。彼のスニーカーのファンは世界各国に存在し、彼の作るスニーカーの虜になっています。その中でも特にスリーストライプでも有名な”アディダス”とのコラボレーションライン『adidas by Raf Simons』からリリースされるスニーカーは絶大な人気を誇っています。

2013年に発足した『adidas by Raf Simons』も現在は7年目になり新作のリリースに賑わっていますがコラボレーション初期から人気を博して来た3シリーズのスニーカーが存在します。『スタンスミス』、『レスポンストレイル』とともに三本柱としてシーリーズ化されてきました。

国内外問わずファンの多い『オズウィーゴ』は非常に人気でダッドシューズブームのトリガー的存在でもあります。しかし、独特なカラーリングとスニーカーには珍しいシリコンパーツはクセのあるデザインだと思い、敬遠する方も少なからずいると思います。
今回は、個人的におしゃれだと思う『オズウィーゴ』を取り入れたOutfitsを紹介していきます。

国内のオズウィーゴコーデ

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yotsubaのピンクのセットアップとのコーディネートです。統一されたピンク系の色味に差し色で白単色のRSオズウィーゴが映えますね。春らしい爽やかなスタイルです。

名前qssy
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黒x赤のツートンのRSオズウィーゴに合わせて全身黒x赤でまとめたスタイルです。先ほどのコーディネートと違い男らしいかっこいい目のストリート系コーディネートになっています。ハイブランドxファストファッションの組み合わせもgoodです。

名前 Yu-suka
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黒で統一したコーディネートです。RSオズウィーゴも黒単色で使っているアイテムもラフシモンズが使われています。ブランドを統一すると雰囲気も相まってより一層かっこよく見えます。

名前のむりん
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韓国でもストリートが流行っていますが韓国ストリート寄りのコーディネートです。スニーカーにスキニー、あえてハズしでネクタイを合わせたスタイルは韓流ストリートでよく見る合わせ方です。韓国が好きな方は是非参考にしてください。モノトーンにパープルが映えてます!

名前
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ゴリゴリのストリートスタイルです。ヴァージル・アブローがデザイナーをしているオフ・ホワイトのジャケットが決まってます。いわゆるラグジュアリーストリートのスタイルに近いコーディネートは今の流行りド真ん中ですね。ジャケットとパンツに色味がある分シンプルな白単色のRSオズウィーゴがかっこよく決まってます。

名前いぶき
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RSオズウィーゴの色味に合わせたコーディネートです。派手になりがちな色のコーディネートですがきれいにまとまったストリートスタイルになっています。色合わせには脱帽です。。。

名前toi
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どちらもハイファッションでかっこいいです。シンプルなモノトーンのコーディネートですが最高にcoolです。ラフシモンズやVETEMENTSにインポートブランドもうまくまとまったスタイルですね。

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RSオズウィーゴのホワイトはバケットハットと、ベージュとブラックはフーディーのカラーと合わせたコーディネートです。カラーがうまくまとまっているかっこいいコーディネートになっています。

海外のOutfits

via ELLE

2018年11月、セレーナ・ゴメスとの関係や少し問題児な一面で世間を賑わすジャスティン・ビーバーと婚約したアメリカ人モデルのヘイリーボールドウィンです。彼女のスタイルはメンズのスタイルでも参考になるかなと思ったので紹介させてもらいます。シックな色味のラフなスタイルにRSオズウィーゴの黄色が映えています。はっきりと色の分かれたツートンのRSオズウィーゴは色味を抑えたスタイルの挿し色にするとかっこよく決まりますね。

via upscalehype

皆さんご存知、カニエ・ウエスト。彼とアディダスのコラボシリーズは世界のスニーカーヘッズが喉から手が出るほど欲しがっていますがそんな彼もRSオズウィーゴを履いています。VETEMENTSxLevi’sのデニムジャケットを羽織っています。スタイル的には黒の色味で統一したコーディネートにスニーカーのソールやシリコンパーツでアクセントが加わっててシンプルでかっこいいですね。

アメリカ人ラッパーのデイブ・イースト。彼の故郷はエイサップ・ロッキーと同じNYの貧困区のハーレムという地区です。シンプルなRSオズウィーゴに赤のフーディーは真似しやすいかっこいいスタイルです。デイブ・イーストが好きな方は是非真似してみてください!

コロンビアでのライブ後に麻薬王 パブロ・エスコバルの墓参りをして地元市民、市長をぶちギレさせた過去を持つアメリカ人ラッパーのウィズ・カリファ。貧困街出身の彼も今や世界の億万長者番付で7位に位置付けるなど成功者ですがそんな彼もホワイトのRSオズウィーゴを履いています。カレッジスエットのプリントに合わせたホワイトでしょうか。服のプリントや柄とスニーカーで色を合わせたコーディネートもいいですね。

ラフコレクターの記事でも紹介させていただきました、エイサップ・ロッキーもRSオズウィーゴを履いています。実は彼がダッドシューズブームの先駆者とも言われてたりします。マフラーのイエローとスニーカーのイエローのラインを合わせているのでしょうか、細かいところにも気を遣った見習いたいコーディネートですね。

自身でモデルをしながらもスタイリストとしても活躍するイアン・コナー。デザイナーとして”Revenge x Storm”という自信のブランドを立ち上げたことでも話題になり、現在は最も影響力のあるファッションアイコンとして知られています。そんな彼もRSオズウィーゴを履いていますがブラックに統一したストリートスタイルに派手なカラーリングのスニーカーはコーディネートを華やかな印象にしてくれます。

MadeinTYOが履いているのはRSオズウィーゴバニーです。シンプルなホワイトは派手なストリートスタイルにもばっちり合っています。スタイルもかっこよくて気になるのですがもっと気になるのは彼のステージ名です。

MadeinTYOはメイドイントーキョーと読みます。東京にゆかりのあるラッパーかと思いきやハワイのホノルルで生まれアメリカのテキサスやカリフォルニアに引っ越しを繰りかえしながら育ったようです。高校は横浜の高校を卒業したみたいですが結局東京との関係はわからずのままでした(笑)

写真右端のファレル・ウィリアムスが履いているのはRSオズウィーゴの黒xスカーレットですね。ファレル・ウィリアムスといえばシャネルの広告等にも抜擢されるなどファッションアイコンとしても活躍し、目が離せない人物です。このRSオズウィーゴ自体もともとかっこいい男らしいカラーリングなんですがコーディネートにマッチしてかなりかっこいいスタイルになっています。

彼女は顏は隠れていますがエイサップ・ロッキーの元彼女としても知られているケンダル・ジェンナーです。実はキム・カーダシアンの妹でもある彼女が着ているのはメタリカのアルバムオマージュTシャツを着ているのでしょうか。派手なカラーリングにも引けをとらないRSオズウィーゴはかなりこのスタイルとマッチしています。

実は大のパパラッチ嫌いな彼女は日本の某番組のパパラッチ企画のコーナーで登場しているのはご存知でしょうか?出川さんと一緒に写真を撮っているのが話題になりましたね(笑)顔の小ささがかなり際立ちますwww

まとめ

RSオズウィーゴコーディネート集としてこの記事はどうでしたでしょうか。参考になりましたか?シンプルなスタイルでも派手なスタイルにでも合わせられるのは天才デザイナー『ラフ・シモンズ』の類い稀なファッションセンスが光っています。シンプル目なカラーリングでもシリコンパーツで派手に見えがちですが合わせやすくデザインされています。

国内外問わず人気な理由がよくわかります。持ってても合わせ方がわからなくて全然履いてなかったけど履いてみようって思った方や、この記事見て買おうと思ってくれる方がいてくれたらうれしいです(笑)

今世紀最大の功績を挙げたストリートファッションブランドの覇者「バレンシアガ(BALENCIAGA)」を徹底解剖

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“#バレンシアガ(BALENCIAGA)の歴史”

現在は生粋のストリートファッション時代。世界各国にはメンズストリートファッションブランドが数多く誕生していく中で、現代のストリートブームを築き上げ牽引してきたと言えるファッションブランドはほんの僅か。

その中でも氷山の一角としても称えられ愛され続けられているブランド「バレンシアガ(BALENCIAGA)」ですが、爆発的に流行した彼らのアイテムの認知度のみが浸透し、そのブランド歴史や背景、デザイナーなどについては多くの人達があまり詳しくは知らないというのも現実でしょう。

今回はそんな今世紀最大の成功を収めたであろうストリートファッションブランド「バレンシアガ(BALENCIAGA)」について少しご紹介をしていきたいと思います。

ストリードファッションブランドの覇者「バレンシアガ(BALENCIAGA)」の誕生歴史

ブランド名BALENCIAGA (バレンシアガ)
設立年1919年
スペイン国内サン・セバスチャン通り
創立者Cristóbal Balenciaga Eizaguirre (クリストバル・バレンシアガ)
1972年死去
現本部フランス・パリ市内

今やファッションムーブメントや流行をも作り出し、時に社会現象までをも沸き起こすブランドとなったBALENCIAGA。コレクションでの新作を世に打ち出せばたちまち世界各国で即完売となり、ヒット商品ともなると探し回る人、ようやく手に入れたとしても帰路で襲われ商品を強奪される人、探せど待てどずっと手に入れることが出来ない人が出て来るほどの驚異的なプレミアムアイテムとして絶大な人気を誇っています。


そんなファッションの歴史においてもココまで影響力を持ったブランドは中々少ない現在、彼等が歩んできたブランド背景について少し覗いてみましょう。

創始者クリストバル・バレンシアガが世界のファッション史に革新を与えた1919年

Via highxtar.

BALENCIAGAとは1919年にスペインの創設者兼ファッションデザイナーの「クリストバル・バレンシアガ」がスペインのサン・セバスチャンにて最初の路面店を設立した事を起源として立ち上げられたファッションブランドです。
最近になって爆発的に人気を博した「トリプル・エス」や「スピードトレーナー」が出回った為、最近出てきた若手ブランドとして認知されがちではあるものの、実は老舗ブランドであるという事を知ると驚く方も少なくはありません。

1991年の当時は、ブランド自体の展開方針が婦人服を中心とした商品を展開していた為バッグや靴といったレザーグッズ、時計や宝飾品、香水、ボディーローションといった女性向けが多かったという意外な一面を持っており、その確かな
実力と女性の心を掴む優雅なフレグランス、ボトルデザイン等が若い女性たちの間で瞬く間に話題となり、初作のヒット品「ル・ディス(Le Dix)」の販売をキッカケにBALECIAGAはすぐにスペイン王家御用達のブランドまでへと成長を遂げました。

その後活動の肥大化を目論みたクリストバル・バレンシアガは1933年には遂にマドリードへと店を展開、さらにマドリードでの成功を納めた矢先の1935年にはバルセロナへと新店舗をオープンし合計3店舗をスペイン国内に構えるまでへとなります。しかし、歴史は彼らの怪物的な成長に牙を剥くかの様にスペイン内戦が勃発。

内戦の影響でBALENCIAGAの各店舗は全店閉鎖。これまで築き上げてきた土地を惜しくも捨て、新たなスタートを切るかのようにパリへと移りジョルジュ・サンク通りにて遂に0からのスタートを開きました。店舗オープンは無事成功を納め彼の実力は初のパリ・コレクションを開くほどとなり、そのコレクションこそが彼のファッションデザイナーとしての大きな転機となります。

もともとのスペイン時代からブランドの名声というのは既にヨーロッパ全土に広く知られてはいたものの、当コレクションによってその名声は「人気」へと転換し、パリ現地のバイヤーから一気に注目を集めることに成功、その後すぐにファッション業界内では大きな話題を呼び、クリストバル・バレンシアガが成し得たこの大業とコレクションラインに影響を受けたDiorの創設者クリスチャン・ディオールが翌年「ニュー・ルック」を発表することになります。


ディオールのニュールックでは世の中に一大センセーションを巻き起こすほどの成功を納めたものの、中でもバレンシアガの名声を脅かす程ではなかったと後世でも語り継がれています。
また、ディオール自身がバレンシアガを崇拝している事もあり、彼は「我々ファッションデザイナー全員の師である」と讃えた程に愛しており、ニュールックでさえもバレンシアガのシンプルで簡潔な構成がその前身にあったと言われています。

玉座を下ろされた地獄のフランス革命時代

Via Sleek Magazine

1968年、それは突然起こりました。この年とは「フランス5月革命」が起こった年であり、革命とは名ばかりの内戦状況へと突入したパリはファッションブランドとしての展開は勿論商業自体に大きな亀裂が入り、この影響を同様に受けたBALENCIAGAはもはや「贅沢や優雅」という玉座はこの場所には無いということを実感し、68年同年のコレクション発表は彼の最後のコレクションとなってしまいました。


彼は「プレタポルテを始めるには年をとりすぎた」という哀言を残した後、ファッション業界の未来に妬みながらも最後まで愛し続けオートクチュールの舞台から引退をしました。同年スペインの3店舗と他店も全て閉鎖することになります。

その後1972年クリストバル・バレンシアガはスペインのハベアでその生涯を閉じる事となり、「クチュール界の建築家」と死後では絶賛され、「全てを1人でこなすことのできる唯一のクチュリエ」であったクリストバル・バレンシアガの引退によりBALENCIAGAというブランドそのものが倒産の危機に追い込まれることになります。

しかし、彼の死後に「ジャック・ボガート」によってブランドはたちまち所有されることとなり、1986年までは香水ブランドとして存続、その後ブランドの代名詞プレタポルテが1987年にて再スタートを切ることとなります。
その後6年の歳月が過ぎ、1992年からはジョセフュス・メルキオール・ティミスター(Josephus Melchior Thimister)がデザイナーを就任することなるものの、世間の評判はやはりクリストバル・バレンシアガとの比較を余儀なくし、悲しくもバレンシアガはかつての栄光からは完全に凋落して行くこととなりました。

若き才能が永劫のタイムレスブランドへと復活を成し得る

Via Racked

彼こそが後に「ルイヴィトン」で「マーク・ジェイコブス」の後任という大役を務めることとなるニコラ・ジェスキエール。
ジェスキエールは1995年にライセンス・デザイナーとしてバレンシアガに入社し、その2年後に前任者ジョセフュスが酷いコレクションを発表して辞任した後、わずか26歳という若さでクリエイティブ・ディレクターに就任したのです。

「ニコラ・ジェスキエールこそ、クリストバル・バレンシアガの生まれ変わりである」という世間からの評価を得、BALENCIAGAはこれまでの低迷から一気に息を吹き返し全く違う新しい「ファッションブランド」へと生まれ変わっていくこととなりました。
その後ニコラのファースト・コレクションとなったSS98コレクションでは、「新生バレンシアガ」を強烈なまでに叩き出し印象づけ、その後も毎シーズン全く異なる斬新な新しいスタイルを提案し続けることとなります。
2000年にはVHI・ヴォーグファッション・アワードで「アバンギャルド・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を獲得、翌年2001年ではCFDAの「インター・ナショナル・デザイン・アワード」、「ウーマンズ・ウェア・オブ・ザ・イヤー」を受賞するに至りました。

そしてわずか26歳にて現在のBALENCIAGAという伝説のブランドを指揮する立場として正式に立ち、その重責を果たし見事にブランドを復活へと誘って行く事となります。

クリストバル・バレンシアガ、ニコラ・ジェスキエール、2人の天才は時代を超えてようやくBALENCIAGAという一つのブランドを共にこの先へと導く事になりました。


グッチの買収で変革が訪れる

Via Por Homme

そしてBALENCIAGAにとって更に目新しい展開が彼らを待っていました。それはニコラ・ジェスキエールの才能に目をつけた「グッチ・グループ」のドメニコ・デ・ソーレが2001年にバレンシアガの買収を持ちかけたのです、グッチ・グループとは後のルイ・ヴィトンを筆頭にした「LVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)」であり、これによってバレンシアガはグッチグループの中の独立したブランドへと変身し、過去とはより一層活動の幅、生産環境の質の上昇を利点にとり更なる進化を遂げていくことになります。

そしてニコラは「BALENCIAGAのブランドとしての投資が足りない」と思っていたため、グッチグループに買収されることによって「資金面での余裕を作ることにより世界に展開できる」という魅力も願ってもないチャンスだったという事もグループ参入への背中押しの理由の一つであったと言われています。

こうした時の流れと共に様々な変化をしてきたファッション業界にも上手く溶け込みブランドを再更生してきた彼によって、一度は死にかけたBALENCIAGAというファッションブランドは完全に勢いを取り戻しプレタポルテラインからバッグや靴、メンズウェアなどファッション商品のラインナップも拡充していく事になります。

クリストバル・バレンシアガの意思を引き継ぐ歴代のデザイナー達

本格的な日本展開をスタートさせたBALENCIAGA

Via Karen Woo

近年ではご存知の通り、メンズラインの商品が展開されており、ビジネス向けのデザインバッグ等の展開によっても男性顧客の数を伸ばしてきていますが、当時の日本での展開はリステアグループが輸入販売を行っていた為2006年に正式にBALENCIAGA・JAPANとしてのリステアグループとグッチグループの共同出資によって設立がされたのがキッカケとなっています。

当時では日本での売上を世界全体の1/4まで引き上げるとという目標を掲げ、2007年の阪急梅田、西武渋谷、新宿高島屋、大丸神戸、名古屋三越など続々とショップをオープン、当時からも日本ではバレンシアガと言えば人気のブランドの一つではあったものの、現在までの急激な国内展開にはこうした当時の展開加速によって一気に勢いづいたという背景についても目を背く事は出来ないところがあります。

また日本展開の後は、アイウェアのライセンス契約をSafiloと締結、Cotyとはフレグランスのライセンス契約を締結するなどプレタポルテから始まった新生BALENCIAGAはバッグに靴からさらなる飛躍を遂げるためのブランド展開を推し進めることになります。

世代交代の第1章

これまでクリストバル・バレンシアガの意思を引き継ぎ、真の生まれ変わりとしてBALENCIAGAを牽引してきたニコラ・ジェスキエールですが、そんなニコラも退任する時が訪れる事となります。

ニコラ・ジェスキエールは15年という長きに渡り、その歴史と共にしたBALECIAGAを2012年末に去り、彼は次のファッションデザイナーとしての新天地「ルイ・ヴィトン」にて新しいデザイナー人生をスタートすることとなりました。

2代目クリエイティブディレクター アレクサンダー・ワン

Via wmagazine.com

その後ニコラの後任としてアジア人初のクリエイティブ・ディレクター「アレキサンダー・ワン」が次のBALENCIAGAを率いて行くことになります、彼自身、自分のブランドを立ち上げており、ニューヨークファッション・ウィークでもハイライトされるほど人気のある「アレキサンダー・ワン」ではあったものの、バレンシアガでの評価はあまり高くなく最初の契約期間の更新は行われず、わずか2年で退任にとなってしまう事になります。

3代目クリエイティブディレクター デムナ・グバサリア

Via Hypebeast

しかしその後はVETEMENTSのヘッドデザイナーであったデムナ・グバサリア(Demna Gvasalia)が就任し、2014年にスタートしたヴェトモンでの人気、そして過去にはマルタン・マルジェラやルイ・ヴィトンでのウィメンズのデザインを手がけたデムナにバレンシアガをどう変革するのか期待が集まる事となりました。


創設者クリストバル・バレンシアガが残した彼のファッションに対する想い

クリストバル・バレンシアガの略歴

Via Heroine

BALENCIAGAの創業はもともと冒頭内容通り、1919年にクリストバル・バレンシアガがススペインのサン・セバスチャンにて最初の路面店を設立した事を起源として立ち上げられたファッションブランドです。

クリストバルは針子であった母親から婦人服の仕立てを学び、12歳の時にはすでに洋裁師の見習いとして働き始めていたと言われており、その時彼の若くもその突拍子抜けした抜群のセンスに魅了され顧客となった「カーサトーレス伯爵夫人」の援助を受け、ブランド設立をするまでに至りました。またクリストルは初め、スーツをリメイクしたデザインを発表した時から世間的にも才能が認められはじめ、そのデザイン性の高さはファッション大都市のパリでも高い評価を受けるようになります。

その後1933年にはマドリード、1935年にはバルセロナに次々と新店舗をオープン、王室も顧客となるほどスペインのファッション界を、リードする存在になっていくのでした。

クリストバル・バレンシアガの経歴

Via blogs.elpais.com

経歴とては彼の成し遂げてきたファッションデザイナーとしての人生そのものが功績であったと言えるでしょう。

また1950年代には「バレル・ルック」、「チュニックドレス」、「サック・ドレス」など、数々のスタイルを発表する事となり、その絶対的王者としてのファッションデザイナーの地位は多くの他デザイナーにも影響を与え、クリストバル・バレンシアガは「クチュール界の建築家」、「クチュリエ中のクチュリエ」、「デザイナーの王様」、「クチュール界のピカソ」などとも評され、ファッションの歴史に大きな影響を与えた人物であると今でも言われています。

また一時はクリスチャン・ディオールと肩を並べるほどの人気があったと言われるものの、ディオールはプレタポルテ(既製服)を世界的に展開し大成功を収める事になるも、その一方でBALENCIAGAはこだわり強く「機械化すれば自分の望む服が作れなくなる」と大量生産を断念、そして積極的なビジネスの拡大も行わなかったと言われています。

そのため、知名度では大きな差がついてしまったものの、オートクチュールが衰退する中でも顧客に恵まれ最後まで採算がとれていたとされています。

今尚、世代を超えたファッションラバーから絶大な支持を受けている理由

今世紀最大の成功を納めたBALENCIAGAのスニーカーシリーズ「Triple S」

Via Pinterest

今やその人気からか、そのアイテム自体も高額なのは去る事ながら、転売価格となれば軽く数十万円程にも飛ぶプレミアム価格となり入手自体困難なものとなっています。
中でも世界的に大ヒットを遂げたアイテムとしては「トリプル・エス(Triple – S)」が有名でしょう。これらの火付け役となったのはファッションアイコンのG-DRAGON、3代目J soul brothersのボーカルである登坂さん、そしてヒップホップ界のカリスマである A$AP ROCKY、他海外セレブリティなどが着用をしたことで一気に人気に拍車が掛かり、今となってもバレンシアガ史上、最も入手困難なアイテムと言われています。

また、入荷されれば即完売となってしまう為、店舗側にて抽選を行い当選した人しか購入することができない位のものとなっています。

勢いを止める事なく打ち出された別作「スピードトレーナー」

Via The Sole Supplier

「トリプル・エス(Triple – S)」以降、次はどんなアイテムを世に発表するのかとファンを待たせた上で打ち出されたアイテムがこの「スピードトレーナー」

2017年春夏コレクションにて発表されたこのスニーカーは、デザイン性も近未来的なシューズとなっており、アッパー部分にはソックスのような柔らかな素材を採用し、白色のテクスチャーのソールを合わせたシンプル is ベストなデザインとなっています。またアッパー外側とソールには「BALENCIAGA」のロゴが添えられており、驚くほど軽量な「スピード トレーナー」は合計約240g。

シューズを履いている感覚とは異なる、「一歩進んだシューズ体験」が楽しめる。またレングスの異なる2モデルが揃い、ロングバージョンはブラック・ホワイト、ショートバージョンはブラック・グレーを展開されており、メンズ・ウィメンズに対応している為カップルで揃えてコーディネートするのもオススメな一品だと公式でも発表されました。

まとめ

Via OnoBello.com

ブランド名の「BALENCIAGA」がフロント部分に堂々と載ったTシャツやパーカーは、ダットシューズの人気に劣らない程にこちらも入手困難なアイテムとなっており、そのシンプルで着心地の良いデザインは希少価値から見てもトップクラスと言えるでしょう。

今でこそ、ここまで空前絶後のストリートファッショブームの火付け役となった「BALENCIAGA」ですが、この先の時代も続くファッショントレンドのムーブメントでも恐らく最先端を走り続ける要となるに違いありません。
これから毎シーズン訪れるたびに発表される新作コレクションやトレンドラインでも注目されていくブランドであることは周知の事実でもあると同様に、ハイラグジュアリーブランドとも肩を並べるだけあってか、決して安価ではないものの、それを着た時の感動はどんなブランドにも勝るものがあると言えます。

先代の意思を継ぎ時代と共に成長を遂げてきたバレンシアガ(BALENCIAGA)。

彼等が描くこの先の未来とは。

今だからこそ改めて注目をすべきファッションブランドと言って間違いありません。

『モードの皇帝』カールラガーフェルドが愛するクロムハーツ #クロムハーツ大図鑑 Vol.17

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”#Chrome Hearts×カールラガーフェルド”

クロムハーツ創業以来から怒涛の勢いで名を広げ、今やその名を知らない人はいないほどのカリスマブランドとなりました。もともとレザーのブランドだったクロムハーツもシルバーアクセサリーが有名になり、【キングオブシルバー】と言われています。

【キングオブシルバー】の呼び名にふさわしいモチーフの造形美リングネックレスピアスブレスレットをはじめ、クロムハーツの造形美やたくさんのこだわりは各国の著名人も虜になっています。

今年の2月に死没という悲しいニュースも流れ、世界のファッショニスタに惜しまれながら他界した【モードの皇帝】と言われ、シャネルの再建の最大の功労者でもあるカールラガーフェルドもクロムハーツのファンなのです。今回は彼について紹介しようと思います。

カールラガーフェルドのプロフィール

本名カール・オットー・ラガーフェルド
生年月日1933年9月10日
死没2019年2月19日(85歳没)
出身地ドイツ ハンブルク
国籍ドイツ
住居フランス パリ近郊ヌイイ=シュル=セーヌ
know forデザイナー 写真家
主なキャリアシャネル(1983‐2019)
フェンディ(1965‐2019)
クロエ(1963‐1978、1992‐1997)
公式サイトKarl Lagerfeld Official Website
父:オットー・ラガーフェルト
母:エリザーベト・バーマン

今さら聞けない!?”モード界の皇帝”ってどんな人?

「シャネル」や「フェンディ」のデザイナーであり、長年ファッション界を牽引する”モードの皇帝”とも言えるカール・ラガーフェルドの意外と知られていない苦労した過去から、定番スタイルに隠された秘密など、カール・ラガーフェルドにまつわる基本の“き”をおさらいします。

生い立ち

伝記作家のアリシア・ドレークによると、彼は1933年9月10日ドイツ北部のハンブルク・ブランケンゼーゼ地区に無糖練乳の生産、輸入会社であるホーホヴァルト社の経営者である父オットー・ラガーフェルド、下着のセールス会社に勤める母エリザベート・バーマンの間に生まれました。母方の祖母であるカール・バーマンがカトリック系政党の中央党の地元政治家であったことから復古カトリック教会を信仰する家庭で育ちました。

が1933年は彼自身否定しています。世界大戦中の爆撃により出生記録がなくなり実際の年齢はだれにもわからないそうです。

ブランケンゼーゼ地区は、絵本のような可愛いヴィラが並ぶ高級住宅街です。カールは絵を描くのが好きな子供で、美術館の絵を見るのも大好きでした。あるとき美術館で、フランス絵画という魔法に出会います。フランス絵画と言えば、マネ・モネ・ルノアール・ゴーギャンなど輝くような傑作ぞろいです。そこからカールの感性が生まれたのでしょうか。

カールはフランス絵画をきっかけに、フランスの魅力に憑りつかれてしまいました。学校の勉強とは別に、屋根裏部屋にこもってフランス語を勉強するなど、フランスのことで頭がいっぱいでした。


私はフランスのすべてを愛していました。フランスに行きたくてたまりませんでした。私が子供の時にフランス語を学んだのは、それが理由です。

カール・ラガーフェルド

キャリアの始まり

1950年、カールはハンブルクで行われたディオールのショーを見て、フランス行きを実現したくなりました。本当はマンガ家になりたかったけど、ファッションデザイナーの方が生計を立てやすいと考えたそうです。デザイナーで生計を立てるというカールの考えを、家族が応援してくれました。

1950年代の初め、カールの母親は、カールと共にフランスに移住します。パリのファッションデザイナー養成学校「パリ・クチュール組合学校」に、カールを入学させるためです。

17歳になるころにファッションデザイナー養成校「パリ・クチュール組合学校」にてファッションを学びます。この時の同級生に【モードの帝王】イヴ・サンローラン、文化服装学院名誉学院長の小池千枝がいます。

カールと同じくめざましい成長をとげて、在学中からクリスチャン・ディオール(Christian Dior)に認められます。この二人は大人になってからもずっと、喜怒哀楽を共有する友達になりました。カールはハーパーズ・バザーのインタビューで


サン・ローランは20年以上の親友。

カール・ラガーフェルド

と答えています。

1955年には国際羊毛事務局(現在のザ・ウールマーク・カンパニー)の支援するデザインコンテストのコート部門で優勝し、ピエール・バルマンのアシスタントとして雇われました。その時にドレス部門で優勝したのはサンローランだったと言います。その後、3年間バルマンの下で働きデザイン室長になりましたが、1958年、ジャン・パトゥの下に移籍して5年間にわたり年2回60点ほど発表されるオートクチュールのデザインを行いました。


生地や技術的なことも主にパトゥのメゾンで学んだ

カール・ラガーフェルド

と語っています。

苦悩の連続

1958年の7月にローランド・カールの名を使った最初のコレクションが行われますが、コレクションの反応は決して良いものではありませんでした。


看板(press booed)を集めたようなコレクション


アメリカのファッションジャーナリストであるキャリー・ドノバン


会社の新しいデザイナー 25歳のローランド・カールのコレクションは引き延ばされた形で昨年の袋形のフォルムの流れを無視したものである


UPI通信社

などの評価ばかりでした。

1960年の春のシーズンにデザインしたスカートはその年のパリで一番短く、当時は斬新なデザインでしたが


既製服(ready-to-wear)としては十分良く売れるだろうが、しかしオートクチュールではない


キャリー・ドノバン

と切り捨てられ、反応は良くありませんでした。それでも1960年代も後半の頃になると、徐々にカールの発表するコレクションの評価も悪くないものになってきていたが、いまひとつという状況が続きます。


ウンザリして、仕事を辞めて、学校に戻ろうと思ったが上手くいかなかった。だからそれから2年間を主にビーチで過ごした。そこで人生というものを学んだと思う。

カール・ラガーフェルド

と語っています。

苦悩から解放の狼煙

オートクチュールのあり方に疑問を感じ、イタリアに渡ってフィレンツェで建築や絵画、彫刻などを学びます。イタリアからパリに戻ってきた1963年、カールはティツィアーニというブランドを立ち上げた年にアメリカ・テキサス州出身のエヴァン・リチャ―ズによって、イタリア・ローマで創業された店でデザインの仕事を始めました。そこではまずオートクチュールを見直し、さらに既製服にも製造が拡大されました。

1963年、カールとエヴァンは共同でデザインを行い最初のコレクションを仕上げた。このブランドの顧客にはエリザベス・テイラーやジーナ・ロロブリジーダ,ドリス・デュークといった著名人がいました。結局カールはこのブランドのデザインを1969年まで行っています。

クロエからフェンディへ

1964年には、フリーランスのデザイナーとして「クロエ」と契約します。最初のうちはシーズンごとに数点のデザインをするだけでしたが、徐々に増えていき、遂にはコレクション全部をデザインするまでになりました。このクロエのデザイナーは1978年まで続き、1992年には再びデザイナーに復帰し、1997年までの5年間勤めあげました。

1965年には毛皮で有名なイタリアのブランド「フェンディ」と契約し、デザインを始めます。それまでの伝統的な形の毛皮のコートを一新し、ミリタリーなど新鮮なスタイルを提案しブランドの刷新を図り、現在まで使われるフェンディのFを2つ組み合わせたロゴもデザインした(その意味は”Fun Fur”であるらしいです)

フェンディとの契約によるデザイン職は50年以上も続きます。こうしたフリーランスとしてデザイン職に携わるやり方は、最初ではないにしろ成功例として以降一般化していきました。

多くの揶揄を黙らせる才覚の発覚

1970年には、その前年の11月に創業者を亡くしたローマのオートクチュール店のためにデザインを始め「ポタポタと落ち感のあるエレガンス」と評され、1970年代には、舞台衣装のデザインを行っていた時期もあり、中にはミラノのスカラ座のためのデザインなど多岐にわたるデザインもこなしていました。

1980年代には様々な会社と契約を結んでデザインを行っていて、伊勢丹と契約してデザインをし、メンズ、ウィメンズで30点ほどの製品を発表したり、他にもアメリカの会社ではランジェリーのデザインや、靴、セーターのデザインを行っています。

1982年シャネルと契約し、低迷ぎみであったブランドを復活させました。2004年、スウェーデンのファストファッションメーカーH&Mとのコラボを発表します。高級ブランドのデザイナーとファストファッションのコラボレーションはそれ以前にはほとんど例がありませんでした。しかし、それ以降、H&Mは毎年著名なデザイナー、メゾンとのコラボレーションを行っています。

シャネルの復活劇

今でもそう簡単なものではありませんが、老舗メゾン再興という事例はそれ以前には一般的ではなかった当時、カール・ラガーフェルドはデザイナーとしてシャネルを再興させました。

創業者「ココ・シャネル」が1971年に亡くなって以降ブランドとしてのシャネルは低迷していました。「シャネルは墓に戻る」とまで言われ、経営状態を立て直すためにカールにデザイナー職のオファーが届きました。その当時、低迷したブランドを再興するという考えは一般的ではなく、カールは多くの友人からその契約を結ぶべきではないと忠告されたそうです。

結局シャネルからの2度目のラブコールをうけたカールは、1983年のオートクチュール、1984年からはプレタポルテ(既製服)とデザインを開始します。結果としてコレクションは高い評価を得て、なおかつ販売・話題性も回復しました。


ゲーテの言葉のように、シャネルのスタイルを進化させたかったのです。過去を知り、その積み重ねの上に、より良い未来を作ろうと

カール・ラガーフェルド

カールがシャネルを復活させたことは、他のブランドにも影響を与えました。形や素材・デザインを新しくしても、ブランドの品格やスピリットは継承できると判ったからです。

こうしたシャネルとカールの関係は、彼が亡くなるときまであり、後任には長年カールの右腕でとして働いてきたシャネルのクリエイティブ・スタジオ・ディレクター「ヴィルジニー・ヴィアール」が即座に就任しました。

モードの皇帝の名言


私は飽き性なんだ。同じテーマを何度も繰り返すなんて、悪夢だね

カールラガーフェルド

読書好きで観察眼に長け、見たものや聞いたもの、読んだものはすべて、独自のフィルターを通じて強力なファッションイメージになりました。彼の書斎は写真やアート関連の書物で埋め尽くされ、蔵書数は、なんと30万冊以上にも上るそうです。


ココシャネルは、かつて『自分が着たいものしかデザインしない』と言ったが、私も、自分が眠りたいと思える部屋しかつくらない

カールラガーフェルド

自身がデザインを手がけたカナダ・トロントのホテル、The Art Shoppe Condosを訪れたときにコンセプトを問われたときの答えです。シャネルへのリスペクトが伝わってきます。


ミューズがいなければ、作品は曖昧で抽象的なものとなり、生彩を失ってしまう。彼女たちは、私のクリエーターとしての表現を助けてくれるんだ

カールラガーフェルド

ミューズとして愛した女性たち”イネス・ド・ラ・フレサンジュ”、”アンナ・ピアッジ”、”アマンダ・ハーレック”、”リアーナ”、”クリステン・スチュワート”、”リリー=ローズ・デップ”など、皆が独自の強さと美しさを備えていました。

彼女たちに特定の共通点はないですが、それぞれがカールの創造活動になくてはならない存在だったと彼は2014年、あるアートメディアにこう語っている。

カールラガーフェルドのファッション

彼のポニーテールにサングラスという独自のスタイルを確立したのは、1970年代のことです。スタイリング剤は好まないし、髪に癖があるため、まとめたほうが楽だそうです。

「カールが好きなブランドはディオール」という説がありますが、必須ではないようです。イタリア製のスーツ、日本のデザイナーズブランド、ヒッピールックなど、試したファッションは数知れずで、16歳からシャツをオーダーしているメーカーがあり、累計300着以上を注文したそうです。

自身が大好きだと公言しているクロムハーツについては、


男が身に着けて許されるジュエリーはクロムハーツくらいなものだ

カールラガーフェルド

と言い、全てのリングを所有していると言われています。

また、2000年の秋、エディ・スリマンが手掛けた「ディオールオム」のスーツを見て衝撃を受けたカールは、「どうしてもディオールオムのスーツが着たい」と、13ヶ月で40kg以上の減量に成功したというのも有名な話です。その後、写真家でもあるカールは、クリス・ヴァン・アッシュに引き継がれたディオールオムのキャンペーン撮影を引き受けています。

2014年には、バービー人形とのコラボレーション作品「バービーラガーフェルド」が999体限定で発売され 、黒いサングラスに黒いジャケット、白くて襟の高いシャツという、いかにもカールらしいコーディネートが特徴的なバービーとなっていました。

キングオブシルバーとモードの皇帝の関係

カールは貴金属については、ゴールドやプラチナよりも、シルバーが好みだそうです。クロムハーツが大好きで、「男性が身につけて良いジュエリーはクロムハーツくらい」と、絶賛し愛用していました。「クロムハーツは全部持ってる」という豪語が有名です。

カールラガーフェルドのクロムハーツへのこだわりは、ファッションデザイナーとして共演したローリーリンスタークと出会い、彼女の革のズボンに身をかがめて、「karl」と書かれたタータン文字を彼女に見せたときに始まりました。

大きな襟のシャツにタイ。その上からクロムハーツのロングネックレスをあわせるのが、彼の定番スタイルですがかなりかっこいいです。推定ですが70cmくらいのチェーンにクリップをトップとして合わせていますね。なんとも独創的な着こなしで、いわゆるジャラ付けというものです。彼がこのジャラ付けという言葉を作ったのではないでしょうか。

これだけのオリジナリティを築きあげるのは並大抵の事ではございませんが、”自分らしさ”を表現できる着こなしはさすがと脱帽モノです。